
第VII部 歴史と職人の心得
第25章
寿司の歴史 ― 屋台から世界へ
寿司は、はじめから今の形だったわけではありません。魚を腐らせずに食べる保存食として生まれ、江戸の屋台で手早い食事になり、いまでは世界中で握られています。この章は読み物として、寿司の千年を超える旅をたどります。カウンターで客に聞かれたとき、正しく、そして楽しく話せることが目標です。
この章で学ぶこと
- なれずし・生なれ・早ずし・握りの違いを、魚を守るしくみと結びつけて説明できる
- 握り寿司の誕生について、確かな時代と、諸説ある考案者を区別して話せる
- 関東大震災、戦後の委託加工、冷蔵庫、回転寿司が寿司をどう変えたかを説明できる
- 寿司が海外に広がった主な出来事を、年代とともに挙げられる
- 寿司の形の移り変わりを、酸・水分・温度という保存の原理から説明できる(一級)
25.1 はじまりは「米を食べない」寿司
寿司のふるさとは、日本ではないと考えられています。最も有力なのは、中国の西南部からラオス、タイの東北部にかけての地域で生まれたという説です。川や水田で稲を作る、海から遠い土地です。田や川でとれる魚を長く保存するための知恵でした。それが稲作と一緒に東アジアへ広がり、日本にも伝わったとみられています。
その最初の形がなれずし(馴れずし)です。作り方の骨組みは単純です。内臓を抜いた魚を塩に漬けて、水分を抜きます。炊いた米と一緒に桶に漬け込み、重石をして、数か月から年単位で置きます。
すると桶の中で、米のデンプンを餌にして乳酸菌が増えます。乳酸ができて、桶の中が酸っぱくなります。魚を腐らせる菌は酸に弱いので、増えることができません。魚はゆっくりと、独特の酸味と旨味を持つ保存食に変わっていきます。
驚くのは、米は食べなかったことです。米は発酵のための「餌」で、崩れた米は捨てていました。今の寿司では主役の一つであるシャリが、最初は食べ物ですらなかったのです。
なれずしは今も日本に残っています。代表は、滋賀県・琵琶湖の鮒ずしです。ニゴロブナを春に塩漬けにし、夏に飯に漬け直し、年を越してから食べます。冷蔵庫のない時代に、魚を年単位で保存できたのです。
なれずしを守っているのは「酸」です。鮒ずしでは、漬け込んでからおよそ 1 か月で、pH が 4 を下回ります。pH が 4 前後まで下がると、多くの食中毒菌は増えることができません。塩で水分が抜けていることも、助けになっています。寿司は千年以上、酸で安全を守ってきた食べ物なのです。
25.2 都へ運ばれた鮓と、米も食べる「生なれ」
日本の記録に寿司が出てくるのは、奈良時代です。8 世紀の律令である養老令には、地方から都へ納める税の品として、アワビや貝の鮓(すし)が見えます。10 世紀の『延喜式(えんぎしき)』にも、各地からアユ・フナ・アワビなどの鮓が都へ納められた記録が残っています。なれずしは長くもつので、遠い国から都へ運ぶ品にできたのです。
室町時代、14〜16 世紀になると、大きな変化が起きます。発酵の期間を数日から数週間に縮め、米がまだ形を残しているうちに、魚と一緒に食べるようになりました。これを生なれ(なまなれ)といいます。
発酵が浅いので、魚の味は生に近くなります。ほんのり酸っぱい米も、おいしく食べられます。そのかわり酸が弱く、長くは保存できません。「保存」より「味」を選んだのです。寿司の性格が変わった、大きな転換点でした。
宮廷の鮓
都に納められた鮓は、宮廷や貴族の宴にも出されました。ただしそれは、ぜいたくな料理というより、酸で守られた高級な保存食という位置づけでした。米を捨てるなれずしから、米と魚を一緒に食べる料理へ。生なれは、保存性を手放して味を取る選択が、初めてなされた形だといえます。
25.3 酢の登場 ― 早ずしと粕酢
江戸時代に入ると、発酵を待たずに、はじめから酢を飯に混ぜて酸っぱくする作り方が広まりました。これが早ずしです。何か月も待つ必要がなくなり、一晩で作れることから「一夜ずし」とも呼ばれました。
木の箱に酢飯と魚を詰めて押す、箱寿司・押し寿司は、大坂を中心に発達しました。今も関西の寿司の柱になっています。酢飯の上に具を散らす、巻く、押す。いろいろな形が生まれたのもこの時期です。酢が広まらなければ、今日の寿司はありません。
酢は古くから米で造られていました。けれども庶民が気軽に使うには、安い酢が必要でした。そこで登場したのが粕酢(かすず)、酒粕から造る酢です。1804 年、文化元年に、尾張国の知多半島にある半田で、酒造りをしていた中野又左衛門が粕酢づくりを始めました。現在のミツカンの始まりです。
粕酢は米酢より安く造れ、旨味が強く、色は赤茶色です。半田の粕酢は船で江戸へ運ばれ、このあと生まれる握り寿司の酢飯に使われました。赤みがかったシャリ、いわゆる赤シャリの由来はここにあります。
粕酢の旨味と色
粕酢の深い旨味と褐色は、もとになる酒粕から来ています。酒粕に含まれるアミノ酸と糖が、熟成の間に旨味と色を生みます。赤酢の化学は第8章で学びました。安く量産できる酢が手に入ったことが、江戸の町に寿司が広まる土台になりました。
25.4 江戸の屋台と握り寿司の誕生
いつ、誰が始めたのか
酢飯を手で握り、上に魚をのせる握り寿司は、文政年間、1818〜1830 年ごろの江戸で生まれたとするのが通説です。考え出した人として最もよく知られるのは、華屋与兵衛(はなやよへえ)です。1799 年に生まれ、1858 年に亡くなった人で、両国で「與兵衛鮓」を開きました。
一方で、深川安宅(あたけ)の「松が鮨」を開いた堺屋松五郎を、先がけとする見方もあります。同じころの江戸で、いくつもの店が握りの形を競い合って完成させた。そう考えるのが、実際に近いようです。
ですから、客に話すときは「与兵衛が発明した」と言い切らないことです。「文政のころの江戸で生まれ、与兵衛や松五郎の店が広めたと伝えられています。考えた人には諸説あります」。こう話すのが正確です。
屋台の握りは大きかった
握り寿司は、江戸の町の人が屋台で立ったまま食べる、手早い食べ物として広まりました。今でいえば、ファストフードです。一貫の大きさは今の 2〜3 倍、小ぶりのおにぎりほどあったと伝えられます。一つか二つで小腹を満たし、さっと次へ向かう。そんな食べ方でした。
ネタは、江戸城の前に広がる江戸湾、今の東京湾の魚介です。コハダ、アナゴ、車海老、ハマグリ、アワビ、白魚などが中心でした。マグロは格の低い魚とされ、醤油に漬けた「ヅケ」にして使われました。脂の多いトロは日持ちせず、ほとんど捨てられていたといいます。
「仕事」は保存の技術だった
江戸前の握りは、「生の魚をのせる料理」ではありませんでした。コハダは塩と酢で締めました。アナゴとハマグリは煮ました。マグロは醤油に漬け、海老は茹で、白身は昆布で締めました。こうした下ごしらえを、寿司屋では仕事と呼びます。
仕事は、味のためだけではありません。冷蔵庫のない時代に、魚を一日もたせるための保存の技術でした。塩は水分を抜きます。酢は酸で菌を増えにくくします。火は菌を殺し、醤油は塩分で守ります。第13章で学んだ下処理の多くは、江戸の屋台で生き残るために磨かれた技術なのです。
「江戸前」という言葉
「江戸前」は、もともと江戸の前の海、つまり江戸湾を指す言葉でした。江戸時代には「江戸前の鰻」のように、魚の産地を表していました。
ところが東京湾でとれる魚が減り、ネタが全国や世界から届くようになります。すると「江戸前」は、産地ではなく仕事の流儀を指す言葉に変わっていきました。締める、煮る、漬けるといった、一手間をかける技のことです。
なお 2005 年には、水産庁の委員会が、魚の呼び名としての「江戸前」を整理しました。「東京湾全体でとれた新鮮な魚介類」というものです。客と話すときは、産地のことか、流儀のことかを分けて使うと誤解がありません。
25.5 明治から関東大震災へ
明治に入ると、寿司のまわりで三つのことが変わりました。
一つめは氷です。天然の氷に続いて、機械による製氷が始まりました。魚を氷で冷やして運び、保てるようになりました。
二つめは鉄道です。1872 年の新橋・横浜間の開業を皮切りに、鉄道が延びていきました。魚も人も技術も、地方へ動くようになりました。
三つめは店の形です。握りは屋台で立ち食いするものでした。それが、客を店に入れて座って食べてもらう「内店(うちみせ)」へと、重心を移していきました。座って食べる料理へ、格が上がったのです。それでも屋台の寿司は、昭和の初めまで町に残っていました。
大きな転機は、1923 年、大正 12 年 9 月 1 日の関東大震災です。東京の寿司屋は大きな打撃を受けました。焼け出された職人の多くが、ふるさとや地方の町に移って店を開きました。それまで地方の寿司といえば、押し寿司やちらしが中心でした。そうした土地にも、江戸前の握りが根づいていきました。大きな災害による人の移動が、握りを全国の料理にするきっかけになったとされています。
25.6 戦後 ― 委託加工と冷蔵庫
戦争が終わった直後の日本は、深刻な食糧不足でした。1947 年には飲食営業緊急措置令が出され、飲食店の営業は原則として禁止されます。
そこで東京の寿司屋は、ある形を認めさせて営業を続けました。客が米を持ってきて、店がそれを握りに加工して返す、委託加工という形です。米 1 合で握り 10 個と引き換えるのが標準とされました。客は配給の米を持って、寿司屋に通いました。この形は東京から各地に広がりました。寿司屋は「料理を売る店」ではなく、「技術を提供する店」として生き延びたのです。
1950 年代の後半からは、電気冷蔵庫が普及します。1960 年代には、ガラスのネタケースで魚を見せながら冷やす店の形が広まったとされます。
遠い海で魚をとる遠洋漁業と、とても低い温度で凍らせる超低温冷凍(第12章)も進みました。これで捨てられていたトロが日持ちするようになり、最高級のネタへと地位を変えました。ウニやイクラなど、江戸前にはなかった生のネタも定着します。冷蔵庫が「生のまま出す」ことを可能にしたのです。
この変化には、裏の面もありました。仕事をしなくても魚がもつようになると、手間を省く店が増えました。切った魚を、そのまま酢飯にのせるのです。江戸前の仕事は「古い」「面倒」とされ、受け継ぐ人が減った時期があります。
一方で、冷蔵庫は衛生の面では確かな進歩でした。10℃以下で保つ低温の管理(第5章)が、店の当たり前になりました。食中毒の危険は下がりました。魚を守る主役が、酸と火から低温へ移った。これが戦後の寿司の、いちばん大きな変化です。
25.7 回転寿司 ― ビール工場からのひらめき
1958 年、大阪府布施市、いまの東大阪市で、白石義明が「元禄寿司」を開きました。ビール工場のベルトコンベアから思いついて、皿にのせた寿司をレーンで客席の前に回す仕組みを作ったのです。これが回転寿司の始まりです。
1970 年の大阪万博に店を出して、全国に知られました。1978 年に白石の権利が切れると、各地で参入が相次ぎました。こうして寿司は、「職人のいる高い店の料理」から、家族で気軽に食べる食事になりました。同時に、大量のシャリと魚を、低い温度で安全に回し続ける。そんな衛生の新しい課題も生まれました。
25.8 海を渡る寿司
寿司が本格的に海外へ出たのは、1960 年代のアメリカです。ロサンゼルスの日本人街に寿司カウンターが開かれました。日本企業の駐在員から、現地の客へと広がっていきました。
このころ、生魚や黒い海苔に慣れない客のために生まれたのが、カリフォルニアロールです。海苔を内側に巻き込み、脂の乗った魚の代わりに、アボカドとカニを使いました。1960〜70 年代に考え出されたものです。考えた人は、ロサンゼルスの職人とする説と、カナダのバンクーバーの職人とする説があり、決まっていません。この裏巻きという工夫(第24章)が、のちの世界的な寿司ブームの入口になりました。
もう一つの転機は、サーモンです。日本では、天然のサケには寄生虫がいることが知られていました。だから生で食べる習慣はありませんでした。1980 年代の半ば、ノルウェーは養殖のアトランティックサーモンを、日本の寿司ネタとして売り込む計画を立てました。長い交渉を経て、1990 年代に生食用のサーモンが日本の市場に定着しました。いまでは世界で最も人気のあるネタの一つですが、「昔からの江戸前のネタ」ではありません。
2013 年 12 月には、「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコの無形文化遺産に登録されました。寿司は和食の顔として、さらに注目されるようになりました。
海外の日本食レストランも増えました。農林水産省の調査では、2006 年に約 2.4 万店だったものが、2025 年には約 18.1 万店です。その多くは日本人以外が営んでいるとされます。寿司を握る職人にも、日本で修業したことのない人が多くいます。
25.9 いま、そしてこれから
今の寿司は、二つの方向に進んでいます。
一つは高級化です。2007 年に、東京版のミシュランガイドが創刊されました。それから、職人が流れを組み立てるおまかせが、高級店の定番になりました。世界中から客が、日本のカウンターを訪れるようになりました。その中で、戦後に細った江戸前の仕事が見直されています。粕酢の赤シャリ、魚を寝かせる熟成(第10章)、昆布締めや漬けといった技です。
もう一つは大衆化です。回転寿司や持ち帰りの寿司が、毎日の食事として定着しました。
そして世界には、暑い国の屋台や夜市で、十分な冷蔵設備のないまま寿司を売る例もあります。生の魚とご飯は、温度の管理を誤れば最も危ない組み合わせです。それを、酸と仕事と低温の知恵なしに扱えば、食中毒は避けられません。
| 形 | 主な時代 | 酸の出どころ | 米の扱い | 魚を守るしくみ |
|---|---|---|---|---|
| なれずし | 古代〜(今も鮒ずしなど) | 乳酸発酵 | 発酵の餌。捨てる | 酸と塩で数か月〜年単位 |
| 生なれ | 室町時代 | 短い乳酸発酵 | 形を残して食べる | 浅い酸と塩で数日〜数週間 |
| 早ずし | 江戸時代前期〜 | 酢を混ぜる | 酢飯として食べる | 酢飯の酸。押して水分を抜く |
| 江戸前の握り | 文政年間〜 | 酢(粕酢・米酢) | 酢飯を握る | 酢飯に加え、締める・煮る・漬ける仕事 |
| 今の握り | 戦後〜 | 酢 | 酢飯を握る | 冷蔵・冷凍と衛生管理。仕事は味のために選ぶ |
表25-1 の中身を言葉でまとめると、こうなります。なれずしと生なれは、発酵で作った酸と塩で守りました。早ずしと江戸前の握りは、酢の酸に、仕事を重ねて守りました。今の握りは、冷蔵と冷凍、そして衛生管理で守っています。
寿司はいつも、「魚をどうやって安全に食べるか」への答えとして、形を変えてきました。なれずしの乳酸、早ずしの酢、江戸前の仕事、戦後の冷蔵。どれも、その時代の技術で安全を守る工夫でした。世界に広がった今、職人が受け継ぐべきものは、握りの形よりも、この「安全を設計する」考え方です。日本寿司協会がこの本の第一の柱に衛生を置くのは、それが寿司の歴史そのものだからです。
25.10 保存の原理で歴史を読み直す
ここまでの歴史を、保存の原理という一本の糸で読み直してみます。
江戸前の仕事を科学で見る
江戸前の仕事は、それぞれ別の原理で魚を守っています。塩は浸透圧で魚の水分を引き出します。酢は pH を下げて、菌を増えにくくします。加熱は菌そのものを殺します。醤油は、その塩分で守ります。
仕事を入れたネタは、水分活性と pH が下がります。だから生のネタより日持ちし、味も深くなります。冷蔵庫のある今も、仕事は「低温に加える、もう一つの守り」として働きます。
| 形 | 魚を守る主な原理 | 保存期間の目安 |
|---|---|---|
| なれずし | 低い pH と、塩による脱水 | 数か月〜年単位 |
| 生なれ | 浅い酸と塩 | 数日〜数週間 |
| 早ずし(箱・押し・ちらし) | 酢飯の低い pH、押して水分を抜く | 当日〜翌日 |
| 江戸前の握り | 酢飯に加え、締める・煮る・漬ける仕事 | 当日中 |
| 現代の握り | 冷蔵・冷凍と衛生管理 | 10℃以下で短時間(第5章) |
保存の期間は、なれずしの年単位から、早ずしの翌日まで、江戸前の握りの当日中へと、だんだん短くなってきました。そのぶん、魚は生に近づき、味はよくなりました。そして今の握りは、低温で守りながら、短い時間で食べてもらう料理です。
回転寿司と、世界の職人
回転寿司は、職人の技術を、機械と分業に置き換えました。そのかわり、大量の米飯と魚を低温で安全に回し続ける、という課題を背負いました。
世界では、寿司を握る職人の数が、日本の職人をはるかに超えたとみられます。海外の日本食店が約 18 万店あることからの推定です。その多くは、熱帯や亜熱帯の国にいます。酸と仕事と低温の知恵なしに、生の魚と米飯を扱えば、命に関わる事故にもなりえます。
数字を飾らない
海外の客に歴史を話すとき、もう一つ心がけたいことがあります。数字を飾らないことです。年代や店の数は、確かな出典のあるものだけを使います。分からなければ、「調べてお伝えします」と答えます。歴史を正確に語る態度は、衛生の数値を正確に守る態度と同じ、職人の資質です。
この章のまとめ
- 寿司の始まりはなれずしです。魚を米と漬けて乳酸発酵させ、酸で守る保存食で、米は捨てていました。室町時代の生なれで米も食べるようになり、江戸時代の早ずしで発酵が酢に置き換わりました。
- 1804 年に尾張の半田で粕酢づくりが始まり、安い酢が江戸の寿司を支えました。赤シャリの由来です。
- 握り寿司は文政年間、1818〜1830 年ごろの江戸で、屋台の手早い食べ物として生まれました。華屋与兵衛・堺屋松五郎らの名が伝わりますが、考案者は諸説あります。一貫は今の 2〜3 倍あったと伝えられます。
- 締める・煮る・漬ける江戸前の仕事は、冷蔵庫のない時代の保存技術でした。「江戸前」は産地の名から、仕事の流儀を指す言葉へ意味を変えました。
- 1923 年の関東大震災で職人が全国に散って握りが広まり、戦後は委託加工で生き延び、冷蔵庫が生のネタの時代を開きました。
- 寿司が世界へ広がる節目は、次の四つです。1958 年の元禄寿司。1960 年代のアメリカとカリフォルニアロール。1990 年代のノルウェーのサーモン。2013 年の和食の無形文化遺産登録です。
- pH 4.6 はボツリヌス菌の境目で、多くの食中毒菌が増えなくなるのは pH 4 前後からです。なれずしは酸と塩による脱水の二重で守られ、保存の主役は発酵の酸、酢と仕事、低温へと移ってきました。(一級)
確認問題
問1 握り寿司の誕生について、最も適切な説明はどれか。
a 奈良時代に、都へ納める税の品として生まれた
b 文政年間(1818〜1830 年)ごろの江戸で屋台の食べ物として広まり、考案者には華屋与兵衛や堺屋松五郎などの説がある
c 1923 年の関東大震災の後に、地方へ移った職人が考え出した
d 華屋与兵衛が一人で発明したことが、記録ではっきり確かめられている
e 戦後、電気冷蔵庫が普及してから生まれた
答え:b
握り寿司は文政年間ごろの江戸で生まれたとするのが通説です。華屋与兵衛のほか、堺屋松五郎を先がけとする見方もあり、考案者は諸説あります。a の奈良時代に納められたのは、なれずしです。c の関東大震災は、握りが全国に広まるきっかけになった出来事です。d のように一人の発明と断定するのは正確ではありません。e の冷蔵庫は生のネタを広めたもので、握りの誕生よりずっと後です。
問2 なれずしと生なれの違いについて、最も適切なものはどれか。
a なれずしは酢で飯を酸っぱくし、生なれは乳酸発酵で酸を作る
b なれずしは発酵を長くかけて米は食べずに捨て、生なれは発酵を短くして米も一緒に食べる
c なれずしは江戸時代に生まれ、生なれはそれより古い奈良時代の形である
d なれずしは魚を生のまま飯にのせ、生なれは魚を煮てから漬ける
e 両者に違いはなく、地域による呼び名の違いにすぎない
答え:b
なれずしは、数か月から年単位の乳酸発酵で魚を保存し、崩れた米は捨てます。室町時代に広まった生なれは、発酵を数日から数週間に縮め、形の残った米を魚と一緒に食べます。a は酸の出どころが逆です。酢を使うのは、江戸時代の早ずしからです。c は時代が逆です。
問3 なれずしが腐らずに保存できる理由について、最も適切なものはどれか。
a pH 4.6 を下回ると、ほとんどすべての食中毒菌が増えなくなるから
b 乳酸菌が魚の中の菌をすべて殺すから
c 乳酸で pH が 4 前後まで下がり、さらに塩で水分が抜けて、菌が増えにくくなるから
d 米が魚の水分をすべて吸い取り、魚が乾物になるから
e 桶の中に酸素がないので、どの菌も生きられないから
答え:c
鮒ずしでは、漬け込みからおよそ 1 か月で pH が 4 を下回ります。多くの食中毒菌は pH 4 前後で増えられなくなります。塩で水分が抜けて水分活性も下がり、酸と水分の二重で守られます。a は誤りで、pH 4.6 はボツリヌス菌の境目とされる値です。黄色ブドウ球菌やサルモネラのように、4.6 より低くても増える菌があります。b の酸は菌を殺すのではなく、増えにくくします。

