日本語

すし検定

目次 第6章 なぜ素手で握れるのか
    1. 序章本書の使い方 ― 二級と一級の範囲
  1. 第I部 食の安全

    1. 第1章世界に広がる寿司と衛生の現実
    2. 第2章微生物と腐敗のしくみ
    3. 第3章寿司屋で起きる食中毒
    4. 第4章洗浄・消毒・異物混入を防ぐ
    5. 第5章温度管理と在庫管理
    6. 第6章なぜ素手で握れるのか
      1. 6.1 手袋では旨い寿司は握れない
      2. 6.2 手洗いと手酢
      3. 6.3 酢飯の酸と時間の管理
      4. 6.4 わさび・ガリ・茶は「補助」
      5. 6.5 酸で守る ― なれずし・サワードゥ・漬物
      6. 6.6 手袋が義務の国で
  2. 第II部 シャリ

    1. 第7章米を知る ― 米と炊飯
    2. 第8章合わせ酢と調味
    3. 第9章シャリ切りと温度
  3. 第III部 魚を知る

    1. 第10章魚の死後に起きること ― 死後硬直・熟成・腐敗
    2. 第11章目利きと仕入れ
    3. 第12章冷凍と解凍
    4. 第13章下処理 ― 塩・酢・昆布・皮・骨
  4. 第IV部 ネタ

    1. 第14章マグロ
    2. 第15章白身魚
    3. 第16章光り物
    4. 第17章海老・蟹・イカ・タコ
    5. 第18章貝類
    6. 第19章煮物・玉子・ウニ・イクラ
  5. 第V部 調味料と薬味

    1. 第20章醤油・煮切り・ツメ・出汁と旨味
    2. 第21章わさび・海苔・ガリ・茶
  6. 第VI部 技術と道具

    1. 第22章包丁と砥石
    2. 第23章おろし方と切り付け
    3. 第24章握りと巻き
  7. 第VII部 歴史と職人の心得

    1. 第25章寿司の歴史 ― 屋台から世界へ
    2. 第26章カウンターに立つ ― 接客・おもてなしと職人の責任
  8. 第VIII部 経営

    1. 第27章お金の流れ ― 原価・歩留まり・値決め一級
    2. 第28章仕入れ・在庫・ロス一級
    3. 第29章開業の準備一級
    4. 第30章お客を集め、常連を育てる一級
    5. 第31章人と店の仕組み一級
  9. 付録 資料編

    1. 付録A覚えておきたい数字と温度・時間の早見表
    2. 付録B食中毒一覧表
    3. 付録C寿司ことばと用語集
    4. 付録D旬のカレンダー
    5. 付録E出題範囲と出題の目安

朗読は本文・コラム・まとめを読みます。表・図・確認問題は読みません。再生中は段落を押すと、そこから聴けます。

第I部 食の安全

第6章

なぜ素手で握れるのか

海外の多くの国では、寿司は手袋をはめた手で握られています。日本の職人は素手で握ります。「なぜ素手で大丈夫なのか」に理由から答えられることが、寿司職人に求められる力です。答えは、手洗い・手酢・酢飯の酸・時間の管理という仕組みにあります。

この章で学ぶこと

  • 手袋の問題点と、手袋が必要な場面を説明できる
  • 手洗いと手酢の役目を説明し、手酢を正しく使える
  • 酢飯が傷みにくい理由と、それでも時間の管理が要る理由を説明できる
  • わさび・ガリ・茶が「補助」である理由と、なれずし・サワードゥと同じ「酸で守る」原理を説明できる
  • 酢酸が菌を抑える仕組みと、海外で素手の仕組みを認めてもらうための書類と記録を説明できる(一級)

6.1 手袋では旨い寿司は握れない

米国の食品衛生の基準である FDA Food Code は、そのまま食べる食品に素手で触れることを、原則として禁じています。そのまま食べる食品とは、加熱などをせずに客の口に入る食品のことです。酢飯も刺身も握り寿司もこれに当たります。だから米国の多くの寿司店は、手袋で握ります。欧州やオセアニアにも、そのまま食べる食品に必要のない素手で触れないよう求める決まりがあります。ただし米国のような原則禁止ではありません。

味の問題

よいシャリ玉は、外は締まり、中はふんわりと空気を含みます(第24章)。この形は、指先で米粒の手応えを感じ取り、力を加減して作ります。手袋はこの感触を奪います。力加減が狂い、空気の抜けた固い団子になるか、締まらずに崩れます。米粒も手袋に貼りつき、次の寿司に移ります。

衛生の問題

手袋は、見た目ほど清潔ではありません。理由は四つあります。

一つめに、手袋の上は洗いません。手袋は、はめてから外すまで一度も洗われません。魚に触り、レジに触り、まな板を拭いた手袋が、そのまま次のシャリを握ります。

二つめに、手が汚れた感覚がないので、素手なら洗う場面でも洗わずに次へ進みます。替えない手袋は、菌を運ぶ道具になります。

三つめに、手酢が手袋になじみにくく、米が残ります。四つめに、手袋の中は蒸れて皮膚の菌が増え、薄い手袋は破れても気づきにくいのです。

日本寿司協会の立場ははっきりしています。素手で握るための衛生の仕組みを身につけた職人だけが、素手で握ってよい。素手は、伝統だから許されるのではありません。仕組みを毎日実行している職人の素手は、洗われず替えられない手袋より安全です。しかも旨い寿司を握れます。

手袋が必要な場面

それでも、手袋を使うべき場面はあります。一つは、手に傷や荒れ、化膿があるときです。二つめは、素手が禁じられている国や地域で、例外の承認をまだ得ていないときです(6.6節)。三つめは、アレルギーの原因になる食材を扱うときです。問題は手袋そのものではありません。「はめれば衛生は完成する」という思い込みです。

6.2 手洗いと手酢

素手の寿司を守る仕組みは、四つの柱と、いくつかの補助でできています。柱は、手洗い、手酢、酢飯の酸、時間の管理の四つです。わさび・ガリ・茶は補助です。

表6-1 素手の寿司を守る仕組み
仕組み何をするか位置づけ
手洗い菌を石鹸で浮かせて流す(第4章)柱(土台)
手酢手の表面を酸性に保ち、米を付きにくくする柱
酢飯の酸pH を 4.0〜4.5 に下げ、菌を増えにくくする柱
時間の管理決めた時間を過ぎたシャリは捨てる柱
わさび・ガリ・茶菌を抑える働きが報告されている。口直し補助

手洗いと爪

土台は手洗いです(第4章)。出勤時、トイレの後、生魚を洗った後、お金や顔に触れた後、そして握りに移る前に洗います。汚れのひどい作業の後は2度洗いです。爪は短く切り、爪ブラシで洗います。爪の下は、最も菌が残る場所です。指輪や時計は、その下が洗えないので外します。

手酢とは

握るときに手を湿らせる水を手水(てみず)といいます。そこに酢を加えたものが手酢(てず)です。配合は、水と酢をおおむね1対1から3対1の間で、店ごとに加減します。3対1とは、水3に酢1です。食酢の pH は 2.5〜3 ほどです。水3対酢1に薄めても、手酢の pH は3前後にとどまります。

手酢の役目は三つあります。

一つめは、米を手に付きにくくすることです。手を湿らせると、手と米粒の間に薄い水の膜ができます。この膜のおかげで、米粒を傷めずに扱えます。酢にも付きにくくする働きがあるといわれますが、仕組みはよく分かっていません。

二つめは、手の表面を酸性に保つことです。酸性の手の上では、菌は増えにくくなります。ただし手酢は、菌を殺す薬ではありません。増えるのを抑える働きで、これを静菌といいます。手洗いで菌を落とした後でなければ、意味がありません。

三つめは、手を湿らせて冷やすことです。

使い方は、指先を手酢に浸し、両手のひら全体に薄く広げます。目安は「手のひらが光る程度」です。多すぎるとシャリが水っぽくなります。少なすぎると米が付きます。作業が変わるごとに付け直します。米粒や脂が浮いた手酢は菌を運ぶので、営業中に何度か新しくします。

手を冷やし、手数を減らす

人の体温は約36℃です。手のひらの表面も30℃前後あります。トロの脂は、冷蔵庫の温度では固まっています。けれども体温より低い温度で軟らかくなり、溶け出します(第14章)。職人の手に長く触れたトロは、表面の脂が溶けて味が落ち、シャリにもくっつきます。だから脂の強いネタを握る前に、氷水で手を冷やす職人は多いのです。

衛生の面でも同じです。手が触れる回数と時間が増えるほど、手の熱と菌がネタとシャリに移ります。ネタの表面が温まれば、ネタの上の菌も増えやすい温度に近づきます。手返し(第24章)で手数を少なくするのは、形を美しくするためだけではありません。手が食材に触れている時間を、最短にするためでもあります。

作業ごとのリセット

手は、作業の区切りごとにリセットします。魚を水洗いした手で、サクを取らない。サクを切った手で、会計をしない。会計をした手で、握らない。

手酢の酸の強さ

市販の食酢は、酢酸を4〜5%含みます。手酢の pH 3前後は、ボツリヌス菌の境目とされる pH 4.6 を大きく下回ります。サルモネラの境目とされる pH 3.7 前後など、多くの食中毒菌が増えられる下限よりも低い値です。それでも働きは静菌です。菌を落とすのは、手洗いだけです。

6.3 酢飯の酸と時間の管理

炊いたご飯は、水分も栄養もたっぷりです。pH(ピーエイチ)は6〜7で、中性に近い値です。pH とは、酸性かアルカリ性かを0から14の数で表す目安です。7が中性で、小さいほど酸性が強くなります。中性に近いご飯は、菌にとって居心地のよい場所です。ここに合わせ酢を打つと、酢飯の pH はおおむね 4.0〜4.5 に下がります。配合や混ぜむらによっては、4.6 を超えることもあります。

pH が下がるほど、多くの菌は増えにくくなります。ただし「pH 4.6 以下なら菌は増えない」は誤りです。4.6 は、ボツリヌス菌が増えられなくなる境目です。けれども、すべての菌の境目ではありません。サルモネラや黄色ブドウ球菌は、酢飯の pH でもゆっくり増えることがあります。酢は菌を殺すのではなく、増えにくくするだけです。

4.6 ボツリヌス菌が増えられない境目 酸性が強い(菌が増えにくい) 中性に近い(増えやすい) 2 3 4 5 6 7 8 酢の原液 2.5〜3 手酢・甘酢 3前後 なれずし・サワードゥ 酢飯 4.0〜4.5 魚の身 5.4〜6.8 白飯 6〜7 合わせ酢を打つと pH が下がる
図6-1 pH の目盛りで見る「酸で守る」食べ物(数値はおおよその値)。酢、手酢、なれずし、サワードゥ、酢飯は 4.6 より酸性の側にあり、白飯と魚の身は中性に近い側にあります。魚の身はマグロのような赤身の魚で低く、タラのような白身の魚で高くなります。

人肌は危険温度帯のまん中

握るときのシャリは人肌、おおむね35〜37℃です(第9章)。これは危険温度帯である10〜60℃のまん中で、多くの菌がよく増える温度です。つまり寿司は、温度で菌を抑えることをあきらめ、かわりに酸と時間で抑える食べ物なのです。ここから、二つの誤解が解けます。

一つめは、「酢飯だから何時間置いても大丈夫」という誤解です。米にはセレウス菌がいます。土に由来し、米によく付いている菌です。この菌は芽胞という硬い殻にこもった姿になって、炊飯の熱を生き延びます(第2章)。そして室温のご飯の中で目を覚まして増え、毒素を作ります。吐き気を起こす毒素は、加熱しても壊れません。酢飯の酸は、増えるのを大きく遅らせます。けれども、酢がよく混ざっていない所では増える余地があります。

だからシャリを捨てる時間を店で決めます。酢を合わせた時刻を書き、決めた時間を過ぎたシャリは、残っていても捨てます。日本の多くの店は、2〜4時間を目安にしています。

二つめは、「冷蔵庫で冷やせば安全」という誤解です。冷やしたシャリは安全ですが、硬くぼそぼそになります(第7章)。口の中でネタの脂を溶かすこともできません。酸と時間で守る道を選んだ以上、寿司職人は時間に厳しくなければなりません。

菌ごとの境目と、酢酸の効き方

世界の食品の決まりは、pH 4.6 を境に「酸性の食品」と「酸性が弱い食品」を分けています。ボツリヌス菌を基準にしているからです。けれども、菌が増えられなくなる pH の境目は、菌ごとに違います。ほかの条件がそろったときの下限で比べます。腸炎ビブリオは pH 4.8 前後、セレウス菌は約 4.3 を下回ると増えなくなります。一方、サルモネラは約 3.7、黄色ブドウ球菌は約 4.0 が下限です(第2章)。この二つは、酢飯の pH でもゆっくり増えうるのです。酢飯は、低い pH と酢酸の働きに時間の管理を組み合わせて、これらの菌を「増えにくい」側に追いやっています。

水分活性はわき役

もう一つの守りは、水分活性を下げることです。水分活性とは、食品の水のうち、菌が使える水の割合を0から1の数で表したものです(第2章)。白飯の水分活性は 0.98 前後と高い値です。合わせ酢の塩と砂糖、酢の成分は水と結びつき、菌が使える水をわずかに減らします。ただし、シャリに入る程度の量では、ほんの少ししか下がりません。主役は pH で、水分活性は補助です。それでも塩と砂糖は、味のためだけに入っているのではありません。

時間の決まりと、保温の道具

セレウス菌の吐き気を起こす毒素は、セレウリドといいます。126℃で90分加熱しても壊れません。増やさないことがすべてです。

米国の FDA Food Code は、時間で管理する場合、温度の管理から外して4時間以内に出すか捨てるよう求めています。

温度で守る道具もあります。高温のシャリウォーマーは70℃ほどで、菌の増えない60℃以上に保てます。けれども米は乾き、酢酸は飛びます。冷蔵すればデンプンが老化して硬くなります(第7章)。どちらもシャリの味を壊すので、寿司は酸と時間で守る道を選んできたのです。

6.4 わさび・ガリ・茶は「補助」

寿司の一貫は、いくつもの守りを重ねてできています。けれども、どれ一つとして菌をゼロにする力はありません。

わさびの辛味は、すりおろして細胞が壊れたときにできます。細胞の中の成分と酵素が、水の中で混ざって生まれるのです(第21章)。この辛味の成分には、大腸菌 O157 や黄色ブドウ球菌などの増殖を抑える働きが、実験で報告されています。わさびをネタとシャリの間に挟むのは、飛びやすい香りを閉じ込めるためです。水分と栄養が集まる境目で、菌を抑える働きも少しは期待できます。けれども一貫分のわさびで、菌を殺しきることはできません。アニサキスも死にません(第3章)。

ガリは、生姜の甘酢漬けです。漬け汁は pH 3前後で、ガリ自身が傷みにくい食べ物です。生姜の成分にも、菌を抑える働きが報告されています。前の一貫の脂やにおいを消す、口直しでもあります。

熱いお茶は、寿司屋では「上がり」と呼びます。熱で口の中の脂を溶かして流します。お茶の渋みのもとであるカテキンは、タンパク質と結びつく性質があります。この渋みが脂っこさを打ち消し、次の一貫の味をはっきりさせます。カテキンにも、菌を抑える働きが報告されています。

醤油や煮切りの塩分、塩締め・酢締め・昆布締め・ヅケといった江戸前の「仕事」も、水分を抜き、塩や酸でネタを守る技術です(第13章)。寿司は守りを何重にも重ねた食べ物です。けれども、どれも補助です。

補助の守りを成分で見る

わさびの辛味成分はアリルイソチオシアネートです。わさびの細胞がすりつぶされると、シニグリンという成分が、ミロシナーゼという酵素の働きで変わってできます。大腸菌 O157、黄色ブドウ球菌、サルモネラなどへの抗菌作用が報告されています。この成分は飛びやすく、気体になって周りに広がります。

ネタとシャリの境目では、冷たい魚と人肌の米が触れ合い、魚から出る水分と栄養が米と混ざります。菌が増えやすい場所と考えられます。そこに置いたわさびの成分は、境目に行きわたります。挟んだ辛味と香りは、口に入れた瞬間に立ち上がります。上に乗せたわさびは香りを逃がし、境目も守りません。

ガリの生姜に含まれるジンゲロールにも、抗菌作用が報告されています。お茶のカテキンは、収斂作用(しゅうれんさよう)を持ちます。タンパク質と強く結びつき、引き締める働きです。濃口醤油は、塩分が約15%です。日本食品標準成分表の食塩相当量では、100 g あたり 14.5 g です(第20章)。pH は 4.7〜4.9、水分活性は 0.8 前後です。この中では、食中毒菌はほとんど増えません。煮切りは、ネタの表面を塩分と酸で覆います。

締めの仕事は、衛生の技術でもあります。塩締めは、塩で水分を抜き、水分活性を下げます。酢締めは pH を下げ、タンパク質の性質を変えます。昆布締めは、昆布に水分を移し、旨味を足しながら水分活性を下げます。ヅケは、醤油の塩分と酒で表面を守ります。どれも冷蔵庫のない時代に育った、「水分を抜き、酸や塩で守る」技術です。江戸前の仕事は、味の技術であると同時に、衛生の技術でした。

表6-2 寿司の材料と守りの仕組み
材料働く成分守り方
酢飯酢酸、塩、砂糖pH 4.0〜4.5。水分活性をわずかに下げる
手酢酢酸(pH 3前後)手の表面を酸性に保ち、米の付着を防ぐ
わさびアリルイソチオシアネートネタとシャリの境目で、飛ぶ成分が補助的に菌を抑える
ガリ酢酸、ジンゲロール自らは酸で傷みにくい。口直しで味覚をリセット
茶カテキン、熱熱い湯で脂を流し、収斂作用で口をリセット
醤油・煮切り塩分約15%、pH 4.7〜4.9ネタの表面を塩と酸で覆う
塩締め・酢締め・昆布締め・ヅケ塩、酢酸、昆布、醤油水分を抜き、pH を下げ、表面を守る

6.5 酸で守る ― なれずし・サワードゥ・漬物

寿司のはじまりは「酸っぱい保存食」

寿司の原点はなれずしです。魚を塩と米と一緒に漬け込み、数か月から年単位で発酵させた保存食です。東南アジアから中国の南部を経て、日本に伝わったとされます(第25章)。

塩をした魚を炊いた米に埋めて、重石をします。すると乳酸菌が、米のデンプンを餌に増えます。乳酸菌は、糖から乳酸を作る菌です。全体の pH は4前後まで下がります。塩で水分が抜け、重石で空気が遮られ、酸性になった桶の中では、腐らせる菌も食中毒の菌もほとんど増えられません。魚は何か月も保存され、酸っぱくなった米は捨てられました。今も滋賀県・琵琶湖の鮒ずしに、その姿が残っています。

室町時代には、発酵を短くして米も一緒に食べる「生なれ」が生まれました。江戸時代には、発酵をやめて米に酢を混ぜる「早ずし」が生まれました。何か月もかけて乳酸菌に作らせていた「酸っぱい米」を、酢ですぐに作れるようにしたのです。酢飯とは、発酵の時間を酢で置きかえた、なれずしの近代版といえます。

サワードゥも漬物も、同じ原理

サワードゥは、酸味のあるパンです。小麦粉と水を発酵させたパン種で膨らませます。パン種の中では、乳酸菌が乳酸と酢酸を作り、野生の酵母が炭酸ガスを作ります。生地の pH は 3.8〜4.5 まで下がります。この酸がカビを遅らせます。そして、パンを糸を引くように傷ませる枯草菌(こそうきん)を抑えます。冷蔵庫も保存料もない時代に、パンが何日も保存できた理由の一つです。

枯草菌は、ご飯で増えるセレウス菌の仲間です。どちらも芽胞を作り、焼いたり炊いたりする熱を生き延びます。そして、どちらも酸の中では増えにくくなります。サワードゥと酢飯は、同じ相手に同じ武器で勝ってきたのです。

ぬか漬け、キムチ、ザワークラウトは、乳酸発酵で野菜を酸性にして守ります。ピクルスは、酢で酸性にします。世界の保存食の多くは、三つの組み合わせでできています。酸性にする、塩などで水分の働きを抑える、空気と時間を管理するの三つです。寿司もその仲間です。

世界の保存食に通じる考え方

ヨーグルトは、乳酸菌が乳の糖を乳酸に変えて作ります。pH 4.0〜4.6 で乳を固め、同時に守ります。チーズは、酸と塩と水分を抜くことを組み合わせます。梅干しは、塩と、梅の酸であるクエン酸で守ります。塩辛や魚醤は、高い塩分で水分活性を下げます。

どれも、pH を下げる、水分活性を下げる、空気と時間を管理する、のどれかを組み合わせています。第2章で学んだ「菌さえ増えなければ、原理的にはいつまでも食べられる」という考え方を、人は昔から経験で知っていたのです。

6.6 手袋が義務の国で

海外で握るなら、守る順番は、第一にその国の法令、第二に科学、第三に日本の流儀です。規則を破れば営業許可を失い、日本の寿司全体の信用も落とします。それでも、素手の道が閉ざされているとは限りません。

米国の FDA Food Code は、素手での接触を禁じています。その一方で、保健当局に代わりの手順を申請し、承認を受ければ、素手で触れることを認めています。申請では、手洗いの仕組みや従業員の体調の管理などを書面で示します。病院や高齢者施設など、感染に弱い人に食事を出す所では使えません。日本の職人に足りないのは、仕組みではありません。それを書き、記録し、見せる習慣です。

酢飯についても、多くの地域で、十分に酸性であることを示すよう求められます。基準は地域によって違い、pH 4.6 以下のところもあれば、4.2 以下のところもあります。pH 計という、pH を測る計器を厨房に置きます。営業日ごとに、pH 4.0 と 7.0 の標準液で目盛りを合わせます。これを校正といいます。そして炊くたびに測って記録します。時間で管理する場合は、温度の管理から外して4時間後の時刻を書き、それまでに出すか捨てます。

代わりの手順の申請書をそろえる

FDA Food Code の代わりの手順では、次のものを書面で示します。

  • 素手で触れる食品の一覧。
  • 作業する場所のすぐ近くに、手洗いの設備があることを示す図面。
  • 従業員の健康管理の方針。嘔吐・下痢・黄疸などの症状を報告させ、働く仕事を制限する決まりです。
  • 教育と、手洗いを実施した記録。
  • 手洗いに加える管理策を、2つ以上。たとえば2度洗い、爪ブラシ、手洗いの後の手指消毒剤、病気のときに休める有給の病気休暇などの制度、当局が認めたその他の策です。

手酢を管理策の一つに数えるかどうかは、当局の判断です。この章の素手の仕組みを文書にすれば、要件のほとんどを満たせます。手の届く所の手洗い場は、設備の問題ではなく、衛生の仕組みの一部です。

一方で、手袋が理にかなう作業もあります。加熱した料理の盛り付けのように、そのまま食べる食品に長い時間触れ続ける作業です。素手と手袋は、場面ごとに選ぶ道具です。

酢飯の pH を測り、記録する

酢飯の pH の基準は、地域によって割れています。オーストラリアのニューサウスウェールズ州や、米国カリフォルニア州の一部の郡は、pH 4.6 以下です。FDA Food Code の考え方は 4.2 未満です。これに沿って、米国アリゾナ州のマリコパ郡や、ワシントン州のスノホミッシュ郡は、4.2 以下を求めています。目標を 4.1 以下とするところもあります。測り方の手順は、次の四つです。

  1. 校正 営業日ごとに、pH 4.0 と 7.0 の標準液で校正します。校正していない値には、意味がありません。
  2. 試料 酢を合わせてよく切った後、数か所から酢飯を取ります。蒸留水と同じ量で混ぜるなど、当局の決めた方法でペースト状にします。
  3. 測定と記録 値が落ち着いたら読み取ります。日付、時刻、どの釜か、pH の値、担当者を書きます。
  4. 手入れ 電極を洗い、保存液に浸けてしまいます。

基準を超えた釜は、そのまま使いません。酢を足すなら、よく混ぜ直し、数か所で測り直します。それでも基準に届かなければ、時間で管理するか、捨てます。そのうえで、配合と混ぜ方を見直します。ただし pH を下げようと酢を増やしすぎると、味が壊れます。配合を変えずに pH を安定させる鍵は、合わせ酢をむらなく行きわたらせるシャリ切りの技術です(第9章)。衛生と味は、ここでも一致します。

pH を管理していても、暑い所では時間の管理が要ります。室温が30℃を超える厨房や屋外では、シャリの時間は2時間を目安に短くします。

この章のまとめ

  • 素手で握れるのは、手洗い・手酢・酢飯の酸・時間の管理という仕組みを身につけた職人だからです。素手は伝統だから許されるのではありません。
  • 手袋は感触を奪い、洗われず替えられなければ菌を運びます。手に傷があるとき、規則で求められるとき、アレルギーの原因になる食材を扱うときは使います。
  • 手酢は水と酢をおおむね1対1〜3対1、pH は3前後。菌を殺すのではなく増えにくくする(静菌)働きで、手洗いのかわりにはなりません。手は冷やし、手数を減らします。
  • 酢飯の pH は 4.0〜4.5 でも、菌を止めきれません。人肌は危険温度帯のまん中なので、シャリを捨てる時間を決めて守ります。
  • わさび・ガリ・茶は補助です。なれずし・サワードゥ・漬物と酢飯は、酸で守るという同じ原理の上にあります。
  • 酢酸は、イオンに分かれていない形で菌の膜を通り抜け、菌の中で酸を放して増殖を止めます。水分活性の働きはわき役です(一級)。
  • 手袋が義務の国では法令を守り、代わりの手順の申請書、校正した pH 計での記録、4時間の時間管理で、素手の仕組みを示します(一級)。

確認問題

問1 「手酢を使っているから、手洗いは省いてよい」と言う職人がいます。正しい考え方はどれですか。
a 手酢は pH 3前後なので菌を殺し、手洗いのかわりになる
b 手酢は菌を増えにくくする静菌の働きで、手洗いで菌を落とした後でなければ意味がない
c 手酢を濃くすれば、手洗いを省いてもよい
d 手袋をはめれば、手洗いも手酢もいらない
e 酢飯が酸性なので、手の菌は問題にならない

答え:b

手酢は米を付きにくくし、手の表面を酸性に保って、菌を増えにくくします。けれども菌を殺す薬ではありません。土台は手洗いです。a と c は、手酢を殺菌剤と取り違えています。d は誤りで、手袋もはめる前と外した後に手洗いが必要です。e も誤りで、酢飯の酸も菌を殺すのではなく、増えにくくするだけです。

問2 酢飯の安全について、正しいものはどれですか。
a 酢飯は pH 4.6 以下なので、どんな菌も増えず、何時間置いても安全である
b わさびをネタとシャリの間に挟めば、シャリの時間の管理はいらない
c 酢の酸は菌を増えにくくするが止めきれないので、シャリを捨てる時間を店で決めて守る
d 人肌のシャリは危険温度帯より高い温度なので、菌は増えない
e セレウス菌の毒素は、シャリを温め直せば壊れる

答え:c

酢飯の酸は、菌が増えるのを遅らせますが、止めきれません。だから酢を合わせた時刻を書き、決めた時間を過ぎたシャリは捨てます。a の 4.6 はボツリヌス菌の値です。サルモネラや黄色ブドウ球菌は、それより低い pH でもゆっくり増えることがあります。b のわさびは補助にすぎません。d の人肌、35〜37℃は、危険温度帯の10〜60℃のまん中です。e のセレウス菌の吐き気を起こす毒素は、加熱しても壊れません。

問3 海外の店で、酢飯の pH を測ったところ 4.9 でした。最も適切な対応はどれですか。
a 4.6 に近いので、問題なくそのまま使う
b 塩を足せば pH が下がるので、塩を加える
c 冷蔵庫で冷やせば安全なので、冷やしてから使う
d そのまま使わず、時間で管理するか捨てる。酢を足すならよく混ぜ直して数か所で測り直し、配合と混ぜ方、pH 計の校正を見直す
e 酢を上から振りかけ、その場所だけ測り直して使う

答え:d

pH 4.9 は、4.6 を超えた酸性の弱い側にあります。b の塩は、pH を下げません。c の冷蔵は、シャリの品質を壊します。e のように酢を上からかけただけでは、むらなく行きわたりません。足すなら、よく混ぜ直して数か所で測り直します。そのうえで配合と混ぜ方、pH 計の校正を確かめます。基準に届かない釜は、時間で管理するか捨てます。