第VI部 技術と道具
第23章
おろし方と切り付け
魚を一尾からサクにし、サクから一切れのネタにするまでの包丁仕事は、寿司の味の大半を決める。骨の構造を知らずにおろせば身が骨に残り、刃を押して切れば細胞が潰れて旨味が流れる。この章では、おろし方の体系と出刃の使い方、引き切りの物理、厚みと繊維の判断、提供直前の温度戻しを学ぶ。一級では、引き切りと角の関係、筋への包丁の向き、厚みの判断、飾り包丁、すき引き、温度戻しが問われる。
この章の到達目標
- 水洗いから三枚・五枚おろし、背開き・腹開き・観音開き、サク取りまでの体系を、骨の構造と結び付けて説明できる
- 出刃の刃元・刃先・峰を使い分け、力ではなく刃を引いて魚をおろせる
- 引き切りが細胞を潰さず断面を立たせ、ドリップを出さない理由を説明できる
- 繊維の向き、脂の量、魚種に応じて切り方と厚みを判断できる
- 飾り包丁・隠し包丁の目的を、食感・醤油・味蕾の観点から説明できる
- 提供直前の温度戻しを、切り置き禁止と両立させて実践できる
- 水洗い工程とサク取り工程を分け、まな板の上の衛生を保てる
23.1 おろし方の体系
どの魚も、おろす順序は同じ論理でできている。まず水洗い(鱗・頭・内臓・血合いを除き、流水で洗う工程)で菌と汚れの多い部分を取り去り、次に骨に沿って身を外し、最後に骨と皮を処理してサクにする。水洗いまでが汚染度の高い工程、サク取りからが清潔工程であり、この境目で器具と手をリセットする(第4章、23.6)。
水洗い ― 鱗・頭・内臓・血合い
鱗は、尾から頭に向けて鱗取りで逆立てて取るか、すき引き(柳刃や出刃を寝かせ、皮と鱗の境を薄く削ぎ落とす方法)で取る。すき引きは鱗取りのように身に圧力をかけないので、ヒラメのように鱗が細かく身の柔らかい魚でも細胞を潰さず、身割れを起こさない。さらに鱗の根元まで皮一枚で切り離すため、鱗の隙間に入り込んだ汚れと細菌ごと除去できる。鱗取りでこすった魚は、鱗が飛び散って厨房を汚し、鱗の根元に汚れが残る(第13章)。頭は胸鰭と腹鰭の付け根を結ぶ線で落とし、腹を肛門まで開いて内臓を出す。内臓を傷つけると胆汁と腸内の細菌が身に付くので、刃先を浅く入れる。中骨に沿って残る血合い(腎臓の血の塊)は、包丁の切っ先か竹のささらで膜を破り、流水で完全に洗い流す。血合いは菌の栄養であり、残れば臭みと腐敗の起点になる。洗い終えたら水気を拭き、ここで一度まな板と包丁と手を洗う。
三枚おろし ― 背から、腹から、中骨に沿わせる
三枚おろしは、魚を上身・下身・中骨の三枚に分ける基本形で、背骨を挟んで左右対称の体を持つ魚すべてに使える。要点は一つ、刃を常に中骨に触れさせながら進むことである。骨から離れれば身が骨に残り、骨に突き刺されば刃が止まる。手順は次のとおりである。
- 背から入れる 頭を右、背を手前に置き、背鰭の際に沿って尾から頭へ皮一枚を切る。二度目で刃を中骨に当て、骨の上を滑らせて背骨まで届かせる。刃先が背骨の突起(棘)に当たる感触を保つ。
- 腹から入れる 魚を回して腹を手前にし、腹鰭の際から尾へ向けて同じように皮を切り、中骨の上を滑らせて背骨まで届かせる。腹骨の付け根は厚いので、刃元で一枚ずつ外す。
- 尾の付け根から外す 尾の付け根に刃を通し、背骨の上に刃を寝かせて頭の方向へ一気に引き、身を外す。背骨と身をつなぐ太い骨は刃元で断つ。
- 反対側 裏返して同じ順で外す。下になった身は骨の形に合わせて刃を寝かせる角度を変える。
- 骨を確かめる 中骨に残った身の量が、おろし方の成績表である。骨が透けて見えるほど残っていなければ合格である。
大名おろしは、背から腹まで一太刀で中骨の上を通して身を外す簡略法で、サンマ・キス・小アジなど身が柔らかく小さい魚に使う。速いが、中骨に身が多く残る。「大名のように贅沢な」おろし方という名の由来がそれを示す。
五枚おろし ― ヒラメ・カレイとエンガワ
ヒラメ・カレイは体が平たく、中骨が体の中央を頭から尾へ走り、そこから左右の鰭に向けて細い骨が伸びる。三枚にはできないので、五枚おろしで表身二枚・裏身二枚・中骨の五枚に分ける。表(目のある側)を上にして置き、中骨の線に沿って頭から尾へ切り込みを入れ、そこから鰭に向けて刃を寝かせ、骨の上を滑らせて身を外す。鰭の付け根に沿って走る筋肉がエンガワで、鰭を動かすため脂と結合組織が多く、歯応えがある。エンガワは身を外す前に鰭に沿って切り離すか、外した身から切り分ける。表身は裏身より厚く、同じ魚でも切り付けの厚みを変える必要がある。
背開き・腹開き・観音開き
背開きは背から包丁を入れて腹の皮一枚でつなげたまま開く方法で、穴子・アジの開き・キス・春子鯛に使う。関東の穴子と鰻は背開きであり、関西では腹から開く腹開きが主流である。背開きは皮目が外に広がって身の厚みが揃い、煮ても焼いても形が崩れにくい。観音開きは厚い身の中央に切り込みを入れ、左右へ刃を寝かせて開き、均一な厚みに広げる方法で、サバの棒寿司や厚い腹身の調整に使う。いずれも「皮一枚を残す」点が共通で、皮が身を支えるので形が保たれる。
23.2 サク取りと出刃の使い方
三枚にした身を、サク(切り付けができる長方形の塊)にする工程がサク取りである。まず腹骨をすく。腹骨は肋骨であり、身の内側で弧を描いている。刃を腹骨の上に寝かせ、骨の曲がりに合わせて刃の角度を変えながら、骨だけを薄く削ぎ取る。深く入れれば腹身が失われ、浅ければ骨が残る。次に血合い骨(身の中央、背身と腹身の境に頭から斜めに並ぶ小骨)を処理する。鯛やブリなど大型魚は血合い骨の両側に切り込みを入れ、骨の列ごと細く切り離して背身と腹身の二本のサクにする。アジやサバなど小型魚は骨抜きで一本ずつ抜く。抜く向きは頭の方向、骨の生えている角度に沿って斜め前方である。逆に引けば身がちぎれる(第13章)。最後に皮を引く。皮引きは柳刃の裏面をまな板に寝かせ、皮を左手で引き、刃はほとんど動かさずまな板と平行に保って、銀皮を身に残す(第13章)。
出刃は部位ごとに役割が違う。刃元は厚く重く、頭を落とし、太い骨を断つ。骨を断つときは刃元を当て、峰を左手の付け根で押すか、刀身の重さを落とす。叩き付けると刃が欠ける。刃先は薄く、皮を切り、骨の上を滑り、腹骨をすく。峰は鱗を逆立てる、骨を叩いて外す、頭を押さえるなど、刃を使わない仕事を受け持つ。どの部位でも、原則は力ではなく刃を引くことである。刃は押し付けても切れない。中骨の上を滑らせるとき、刃を手前に引く動きの中で骨に触れさせる。力を入れれば刃は骨に食い込み、身を削り、刃先を欠く。おろす速さは力ではなく、刃が骨を読んでいるかで決まる。
| 魚種 | おろし方 | 要点 | 注意 |
|---|---|---|---|
| 鯛 | 三枚(本出刃) | 鱗が硬く多いので、すき引きか鱗取りを丁寧に。頭は梨割りにしてカマ・兜を取る。血合い骨は両側に切り込みを入れて列ごと外す | 背鰭と鰓蓋の棘で手を切りやすい。腹骨が太く、刃元で外す |
| ヒラメ | 五枚 | 鱗はすき引き。中骨の線に沿って切り込み、鰭へ向けて外す。エンガワを別に取る | 表身と裏身で厚みが違う。裏身は薄く切ると崩れる |
| アジ | 三枚、背開き、大名(小出刃) | 尾の側線上の硬い鱗(ゼイゴ)を尾から頭へ削ぎ取る。皮は頭側から手で引き、銀皮を残す | 身が薄いので刃を深く入れない。大量にさばくときは品温管理(第5章) |
| サバ | 三枚 | 身が柔らかく崩れやすい。おろしたらすぐ塩を当てる。血合いが大きく、臭みの元になるので完全に除く | アニサキスは内臓周辺の身に多い。おろしながら目視で確認(第3章) |
| 穴子 | 背開き(関東)・腹開き(関西) | 目打ちで頭を固定し、背から中骨の上を一気に尾まで引く。中骨・腹骨を外し、鰭を落とし、ぬめりを取る | 血液に毒性があり、目や傷口に入ると炎症を起こす。加熱で失活する(第19章) |
| イカ | 胴と足を分けて開く | 胴に指を入れて内臓ごと足を抜き、軟甲を抜いて胴を開く。皮は四層で、内側の透明な薄皮まで除く(第17章) | 墨袋を破らない。表面に寄生虫(アニサキス)の確認 |
23.3 切り付けの科学 ― 引き切りと角
サクから一切れを切り出す動作を切り付けと呼ぶ。寿司の切り付けは引き切りが原則である。柳刃の刃元をサクの奥に当て、刃を手前に引きながら、刃元から切っ先までの長い刃渡りを使って一動作で切り離す。刃を上から押さない。押し切りでは刃先がネタの表面を押し潰してから入り、往復切りでは刃が前後するたびに断面がこすられる。どちらも断面に細胞の潰れた層を作る。
刃が引かれると、刃先の微細な凹凸(22.5)が繊維を次々に裂く。刃が刃筋の方向に滑りながら進むので、小さな押し付けの力で刃先が組織に入り、断面は刃先の線がそのまま写った滑らかな面になり、細胞の破壊は刃が通ったごく薄い層に限られる。これに対して押し切りでは、刃を真下へ押す力だけで切るため大きな力が要り、刃の斜面が組織を横に押し広げる。細胞は破断する前に圧縮され、細胞膜が破れて内部の液が流れ出す。これがドリップで、遊離アミノ酸・核酸(イノシン酸)・水分を含む旨味そのものである。ドリップが出た断面は白くにごり、まな板に液が残り、口に入れたときの旨味の立ち上がりが弱い。
引き切りの結果として現れるのが角(かど)が立つ切り口である。断面と表面が交わる稜線が鋭角に立ち、光を反射して輝く。角が立ったネタは見た目が締まるだけでなく、口に入れたときの舌触りもはっきりする。角が丸まったネタは、刃が鈍っているか、押し切りか、サクの温度が高く身が軟らかすぎたかのいずれかである。角を立てる条件は、鋭い刃(第22章)、一動作の引き切り、冷えたサク、濡れ布巾で拭いた清潔な刃の四つである。
23.4 切り方・繊維・厚み
平造り・そぎ切り・薄造り
平造りは刃を立て、サクの右端から繊維に対して直角または斜めに引き切り、切った一切れを右へ送る、最も基本の切り方である。マグロ・カツオ・ブリなど、身の厚みで味わう魚に使う。そぎ切りは刃を寝かせ、サクの左端から斜めに薄く削ぐように引く。切り口の面積が広く、薄くても見栄えがし、鯛・ヒラメ・スズキなど身の締まった白身に使う。寝かせる角度が浅いほど一切れは広く薄くなる。薄造りはそぎ切りをさらに薄く、器の模様が透けるまで引いたもので、フグ・カワハギ・ヒラメに使う。薄さを揃えるには、刃を薄いふぐ引きにし、サクを十分に冷やして身を締めておく。コハダやアジのように半身をそのまま使う光り物では、皮目に包丁を入れて(下記)、身の厚い背側を薄くそいで厚みを揃える。
繊維の向き ― 筋への包丁
魚の筋肉は筋節(W字型に重なる筋肉の層)が頭から尾へ並び、層の間を薄い結合組織の膜(筋隔)がつないでいる。サクの表面に見える白い筋がこれで、マグロのトロではこの膜が厚く、噛み切れずに口に残る。包丁は筋の繊維に対して垂直、または斜めに交差するように入れる。筋が細かく断ち切られ、口の中で脂と一緒に溶ける。筋と平行に切れば、一切れの中に長い筋が一本丸ごと残り、噛むたびに繊維が引っかかる。サクを置くときに筋の走りを見て、筋が左下から右上へ走る向きにサクを置き、刃を筋に交差させて引くのが基本の構えである。筋の間隔が狭い尾に近い部分は、筋を断っても口に残るので、ネギトロや巻物に回す。
厚みの判断
厚みは「ネタとシャリが口の中で同時になくなる」ために決める。脂の強いネタは薄く切る。トロを赤身と同じ厚さで切ると、脂の網目はシャリより溶けるのが遅く、シャリが先になくなって脂だけが口に残る。薄く切って脂の量を減らし、人肌のシャリ(第9章・第14章)で脂が溶けるタイミングをシャリのほどけるタイミングに合わせる。白身は薄く広く切る。身が締まって噛み応えがあるので、厚いとシャリより長く口に残る。そぎ切りで面積を広げれば、薄くてもシャリを覆い、見栄えと一体感を両立できる。赤身はやや厚く切る。脂が少なく身が柔らかいので、厚みがあっても溶け、厚みの分だけ赤身の酸味と鉄分の味がシャリに負けない。貝やイカのように歯応えで食べるネタは、厚みより隠し包丁で噛み切りやすさを作る。
| ネタ | 切り方 | 厚さ | 長さ×幅 | 重さ | 理由 |
|---|---|---|---|---|---|
| マグロ赤身 | 平造り(筋に交差) | 6〜8mm | 7〜8cm × 3cm | 13〜18g | 脂が少なく柔らかいので厚くても溶ける |
| 中トロ・大トロ | 平造り(筋に交差) | 4〜6mm | 7〜8cm × 3cm | 12〜16g | 脂の溶ける時間をシャリに合わせる |
| 鯛・ヒラメ | そぎ切り | 3〜4mm | 7〜8cm × 3.5cm | 10〜14g | 身が締まるので薄く広く |
| ブリ・カンパチ | 平造り | 5〜6mm | 7cm × 3cm | 12〜16g | 脂と歯応えの中間 |
| コハダ・アジ | 半身・皮目に包丁 | 身なり | 半身 | 10〜15g | 背側を薄くそいで厚みを揃える |
| イカ | 開いて細かく隠し包丁 | 4〜6mm | 7cm × 3cm | 10〜13g | 繊維を断って噛み切りやすく |
飾り包丁と隠し包丁
ネタの表面に浅く入れる切り込みが飾り包丁、裏(シャリ側)に入れて見えないものが隠し包丁である。目的は三つある。第一に、硬い繊維や筋を断ち切って歯切れを良くする。イカの交差するコラーゲン繊維、アジやコハダの皮、ブリの筋がこれで噛み切りやすくなる。第二に、表面積を増やす。切り込みの分だけ表面が増え、煮切り醤油や塩が絡む量が増える。第三に、増えた表面が舌の味蕾に触れる面積を広げ、旨味や甘みを強く感じさせる。イカの甘みが隠し包丁で立つのはこの効果である。切り込みは深さを身の三分の一から半分までにとどめ、間隔を揃える。深すぎれば握ったときにちぎれ、浅すぎれば効果がない。光り物の皮目への包丁は、皮の収縮を抑えて握りの形を保ち、硬い皮を噛み切れるようにする。コハダの皮に斜めの格子を入れる、アジの皮に縦の筋を入れるなど、店ごとの意匠が歴史的に生まれた。
23.5 提供直前の温度戻し
冷蔵庫から出した直後のネタは 2〜4℃ である。この温度で口に入れると、舌の味蕾(味を感じる細胞の集まり)の感度が落ち、甘みと旨味が弱く感じられる。マグロの脂はおよそ 24〜30℃ 付近までに溶けきるとされ(第14章)、冷え切った脂は口の中で溶け切らず蝋のように残る。香りの成分は揮発性で、温度が低いほど立ち上がらない。だから握る直前に、ネタの表面温度をわずかに上げる工程を入れる。これが温度戻しである。
方法は、サクから切り出した一切れを、握る直前の数十秒から長くて 1〜2 分、まな板の上か左手の上に置くだけである。目安は表面が 10℃ 前後まで戻り、脂のあるネタなら表面がわずかに艶を持ち、指で触れて冷たさが刺すようでなくなった状態である。ネタの中心まで温めるのではない。表面だけを戻し、人肌のシャリ(約 35℃)と合わせることで、口の中で脂が溶け、香りが立ち、味蕾が旨味を感知する。中心が冷えているので、鮮度も食感も保たれる。
この工程は、第5章の切り置き禁止と矛盾しない。切り置きが禁じられるのは、まな板の上に何十貫分ものネタを並べて室温に長時間さらし、品温が 10℃ を超えたまま菌が増える時間を与えるからである。温度戻しは「必要な分だけ、直前に」行う。切るのは注文を受けてから一切れ、置くのは数十秒から 1〜2 分、その間にシャリを取ってわさびを付ける。この順序を守れば、ネタが危険温度帯に入る時間は数分に満たない。逆に、営業前にサクを常温に出して「温度を戻しておく」のは切り置きと同じ誤りである。サクは冷蔵庫、一切れだけを直前に戻す。
23.6 まな板の上の衛生と動線
おろしの工程は衛生のレベルが途中で切り替わる。水洗い(鱗・頭・内臓・血合い)までは、魚の体表と腸内に由来する菌(腸炎ビブリオ、大腸菌群など)が大量に存在する汚染工程であり、三枚におろしてサクにする工程は、客の口に直接入る身だけを扱う清潔工程である。両者を同じまな板・同じ包丁・同じ手で続ければ、水洗いで散った菌がサクに移る。原則は工程を分けるか、工程間でリセットすることである(第4章)。理想は水洗い専用のまな板と出刃を流しの脇に置き、サク取り用のまな板と包丁を作業台に置く。できなければ、水洗いが終わった時点で、まな板・包丁・手を洗浄し、熱湯またはアルコールで消毒し、まな板を拭き直してからサク取りに移る。
まな板は乾いたままだと身が貼り付き、濡れすぎていると身が水を吸う。固く絞った濡れ布巾で全体を拭き、表面がしっとりしている状態で使う。布巾は濡れ布巾と乾き布巾を分け、濡れ布巾は刃とまな板を拭くもの、乾き布巾は水気を取るものと決める。血合いを拭いた布巾でサクを拭かない。つけ場では手酢(酢を加えた手水。第6章)が手の表面を弱酸性に保つが、仕込み場では手酢に頼らず、工程が変わるたびに石鹸で手を洗う。サクは水気を拭き、キッチンペーパーで包んでバットに入れ、ラップをして冷蔵庫に戻す。おろしてから握るまでの間にまな板の上で待たせる時間を、秒単位で削る意識が、味と安全の両方を守る。
この章のまとめ
- おろしの順序は、水洗い(鱗・頭・内臓・血合い)→骨に沿って身を外す→サク取り(腹骨をすく・血合い骨・皮引き)。水洗いまでが汚染工程、サク取りからが清潔工程で、境目で器具と手をリセットする。
- 三枚おろしは刃を常に中骨に触れさせて進める。大名おろしは速いが身が骨に残る。ヒラメ・カレイは五枚おろしでエンガワを別に取る。背開き・腹開き・観音開きは皮一枚を残して形を保つ。
- 出刃は刃元で骨を断ち、刃先で皮を切り骨の上を滑らせ、峰で鱗や骨を叩く。力ではなく刃を引く。
- 切り付けは柳刃の長い刃渡りを使った一動作の引き切り。細胞を押し潰さず断面が滑らかで、細胞膜の破壊が最小限、ドリップ(旨味)が流出しない。角が立つ切り口はその結果である。
- 筋(筋隔)には繊維に垂直または斜めに交差させて刃を入れ、口に残る筋を細かく断つ。
- 厚みは「ネタとシャリが口の中で同時になくなる」ために決める。脂の強いネタは薄く、白身は薄く広く、赤身はやや厚く。
- 飾り包丁・隠し包丁は、繊維を断って歯切れを良くし、表面積を増やして醤油の絡みと味蕾への接触を増やす。皮目への包丁は皮の収縮と硬さを抑える。
- 温度戻しは、一切れを握る直前の数十秒〜1〜2 分だけ表面温度を戻し、味蕾の感度・脂の溶け・香りの立ち上がりを引き出す。切り置き禁止とは「必要な分だけ、直前に」で両立する。
確認問題
問1 寿司の切り付けに「引き切り」が用いられる理由として、正しいものはどれか。
a 刃を往復させることで断面に細かい傷を作り、醤油の絡みを良くするため
b 刃元から切っ先までを一動作で引くことで細胞を押し潰さずに切り裂き、断面を滑らかにして細胞膜の破壊とドリップの流出を最小限にするため
c 押し切りより速く切れるので、ネタが室温にさらされる時間を短くできるため
d 刃を手前に引くと摩擦熱でネタの表面が温まり、脂が溶けて香りが立つため
e 柳刃は刃渡りが短いので、何度も引かないと一切れを切り離せないため
答え:b
引き切りでは刃が刃筋の方向に滑りながら進むため小さな力で刃先が入り、刃先の微細な凹凸が繊維を裂いていくので、断面は刃の線を写した滑らかな面になり、細胞の破壊は刃の通ったごく薄い層にとどまる。押し切りや往復切りは刃の斜面が組織を横に押し広げ、細胞が破断前に圧縮されて細胞膜が破れ、旨味(ドリップ)が流れる。a は断面を荒らすことが目的ではなく逆である。e は柳刃の刃渡りが長い理由を取り違えている。

