序章
序章
本書の使い方と一級の位置づけ
本書は、日本寿司協会が一級の受験者のために編んだ公式テキストである。寿司が世界に広がった今、職人に求められるのは「どうやるか」だけではなく「なぜそうするか」を説明できる力である。この序章では、協会が本書を出す理由、一級の意味、本書の構成と学び方を示す。
この章の到達目標
- 協会が本書を刊行する目的と、衛生を第一の柱に置く理由を説明できる
- 四級から一級までの中で一級がどの位置にあり、何が問われる級かを説明できる
- 本書の構成と五種類のコラムの意味を把握し、自分に合った読む順序を組み立てられる
協会はなぜこの本を出すのか
寿司は、この半世紀で日本の料理から世界の料理になった。北米や欧州の都市はもちろん、アジア、中東、中南米、アフリカの市場や夜市にも寿司の屋台が並ぶ。日本寿司協会はこの広がりを歓迎し、誇りに思う。
しかし同時に、協会は深刻な懸念を持っている。世界に広がったのは寿司の「形」であって、その形を安全に成り立たせてきた「条件」ではなかった。気温 35℃の屋台で、溶けかけた氷の上に生の魚が並び、朝に合わせた酢飯が夕方まで売られる。一度も冷凍されたことのない魚が、寄生虫の確認もなく生で出される。こうした寿司によって食中毒が起き、亡くなる人がいる。協会はこれを止めたい。だからこそ、本書の第一の柱は衛生である。
日本の寿司が「生の魚を食べる料理」として成立してきたのは偶然ではない。漁船から店までつながる低温の流通、仕込んだその日に握って数十秒で口に入る短い提供時間、酢飯の酸と塩(わさびは補助)、そして内臓を素早く取り除き、まな板を洗い、手を酢で清める職人の訓練。これらが重なって初めて生食は安全になり、一つ欠ければ崩れる。崩れたことに気付けるのは、「なぜそうするのか」を知っている職人だけである。
本書が衛生に続いて重視するのは、食材を扱う正しい知識である。魚はなぜ腐るのか。熟成と腐敗はどこで分かれるのか。「菌さえ入らなければ、原理的にはいつまでも食べられる」という職人の言葉を、経験則ではなく科学として説明する。そのうえで、おいしい寿司を作るための米と酢と魚の科学、技術、歴史と心得へと進む。協会の既存教本は基本に徹したものであったが、本書はその先に踏み込み、現場で本当に使える知識と、職人の間でしか伝えられてこなかった知恵を理由とともに書き記す。読者には海外で握る職人も含まれる。したがって本書は日本の常識を前提にせず、「なぜ氷でなければならないのか」まで書き、米国や欧州の規制を併記する。
一級とはどんな級か
日本寿司協会の検定は、四級から一級までの四段階で構成されている。四級と三級は寿司の基礎を学ぶ段階であり、筆記試験は課されない。筆記試験があるのは二級と一級の二つだけである。一級は検定の最上位の級であり、二級に合格した職人を対象に、会場での実技と筆記を課す。本書はその筆記の公式テキストである。
二級では「何をするか」と、その理由を職人の言葉で説明できることが求められた。一級では、さらに一段深く、その理由を科学の言葉で説明し、数値の根拠まで答えられることが求められる。手を洗う、魚を冷蔵庫に戻す、酢飯は人肌に保つ。これらは二級までに身に付けているべき手順と考え方である。一級では、同じ事柄について次のように問われる。黄色ブドウ球菌の毒素はなぜ加熱しても消えないのか。アニサキスを殺すのに、なぜ酢や塩では足りず、−20℃以下で 24 時間以上の冷凍が必要なのか。
本検定の筆記問題は五肢択一である。選択肢には、一見もっともらしいが科学的に誤った文が並ぶ。「加熱すれば安全」「冷凍すれば殺菌できる」「新鮮なら寄生虫はいない」。こうした誤りを見抜くには手順の暗記では足りず、背後にある浸透圧、pH、水分活性、酵素といった原理を職人の言葉で理解している必要がある。数値も単独では意味を持たない。「−20℃」だけでは知識にならず、「中心温度で」「24 時間以上」という条件が付いて初めて使える知識になる。本書の数値には必ず単位と条件を付けた。
協会が一級合格者に期待するのは、自分の店の衛生と品質を自分で設計できること、若い職人に手順の理由を教えられること、海外で店を任されたときに現地の保健当局と対等に対話できることである。一級は検定の到達点だが、学びの終わりではない。ここで身に付ける「なぜ」を科学で考える習慣は、その後の職人人生のすべてを支える。
本書の構成
本書は七つの部と四つの付録からなる(表0-1)。第I部は衛生であり、すべての読者に最初に読んでほしい。
| 部 | 章 | 主な内容 |
|---|---|---|
| 第I部 食の安全 | 第1〜6章 | 世界の寿司と衛生、微生物と腐敗、食中毒、洗浄・消毒、温度と在庫、素手で握れる理由 |
| 第II部 シャリの科学 | 第7〜9章 | 米と炊飯、合わせ酢、シャリ切りと温度 |
| 第III部 魚を知る | 第10〜13章 | 死後の変化と熟成、目利き、冷凍と解凍、下処理 |
| 第IV部 ネタ各論 | 第14〜19章 | マグロ、白身、光り物、海老・蟹・イカ・タコ、貝、煮物・玉子・ウニ・イクラ |
| 第V部 調味料と薬味 | 第20〜21章 | 醤油・煮切り・ツメ・出汁、わさび・海苔・ガリ・茶 |
| 第VI部 技術と道具 | 第22〜24章 | 包丁と砥石、おろし方と切り付け、握りと巻き |
| 第VII部 歴史と心得 | 第25〜26章 | 寿司の歴史、提供・接客と職人の責任 |
| 付録 | A〜D | 温度・時間早見表、食中毒一覧表、用語集、出題分野と出題の目安 |
各章は同じ型で書かれている。冒頭に導入と到達目標、本文、章末に「この章のまとめ」と五肢択一の確認問題。確認問題は、その章で必ず押さえるべき要点だけに絞って置いた(衛生を扱う第I部は各章二問、ほかは一問)。実際の試験問題ではないが、同じ水準で作られている。関連する内容は「第○章参照」と示した。筆記試験は分野ごとの比率に沿って問題集から出題されるので、付録 D の「出題分野と出題の目安」を見て学習の配分を決めるとよい。
コラムの記号の意味
本文の途中に五種類の囲みコラムを置いた。以下、それぞれを実際の形で示す。
学び方の助言
第一に、数値は「数字・条件・理由」の三つ組で覚える。「−20℃以下で 24 時間以上」は、「中心温度で」という条件と、「アニサキスは酢・塩・わさびでは死なない」という理由と一緒に覚える。理由まで言えれば、条件を変えた選択肢に惑わされない。
第二に、各節を読み終えたら「なぜ」を一文で言ってみる。言えなければ理解していない。確認問題では、正答を選ぶだけでなく、残り四つの選択肢がなぜ誤りかを自分の言葉で説明する。
第三に、現場で確かめる。温度計を持ち、自分の店の冷蔵庫の実際の温度、まな板に置いた魚の品温が何分で何度上がるかを測る。酢飯の pH を測ってみる。本書の数値が自分の店でどうなっているかを知ることが、最も確かな学習である。
第四に、海外の読者は、本書の数値が日本の基準を基本としていることを忘れないでほしい。保健当局の運用は州や市によって異なる。自分の店の地域の規制を必ず確認し、日本の基準と異なるときは厳しい方に従う。最後に、職人の経験則にあたる部分は協会が今後も検証を続ける。自店で異なる結果を得たときは協会に知らせてほしい。本書は改訂を重ねて育てていく教科書である。
本書の表記について
温度は摂氏で示す。「中心温度」は食品の最も厚い部分の内部の温度、「庫内温度」は冷蔵庫や冷凍庫の空気の温度であり、本書はこの二つを厳密に区別する。「10℃以下」は 10℃を含む。検定の名称は「一級」「本検定」とのみ記す。

