
第VII部 歴史と職人の心得
第19章
カウンターに立つ ― 接客と職人の心得
寿司職人は、客の目の前で生の魚を素手で扱い、その場で食べてもらいます。これほど客との距離が近く、間違いの許されない料理はあまりありません。この章では、おいしく出すための所作と、客の命を守るための約束事を、一続きの「職人の心得」として学びます。
この章で学ぶこと
- カウンターでの身なり・手洗い・つけ台の扱いを、理由とともに実践できる
- おまかせの流れを組み立て、始める前にアレルギーと苦手な食材を聞き取れる
- 特定原材料 9 品目を挙げ、申告のある客に専用の器具を使う理由を説明できる
- テイクアウトの温度と時間、事故が起きたときの初動、ノロウイルスにかかった職人の復帰の考え方を説明できる
19.1 カウンターの所作
カウンターに立つ職人の身なりは、客が最初に目にする「この店の衛生」です。白衣は毎日替え、髪は帽子や鉢巻きで覆います。爪は短く切り、指輪・腕時計・マニキュアは着けません。爪の裏や指輪の下は洗い残しが最も多い場所で、石鹸が届かなければ黄色ブドウ球菌(第2章)がそこに残ります。
手洗い(二度洗い。第3章)は、客から見える場所で行います。素手で握る職人を初めて見る海外の客ほど、目で確かめて安心します。そして、見られている手洗いは省けません。客への無言の説明であり、自分への約束でもあります。
客の前のつけ台(握りを置く台)は、一組の客が帰るたびに清潔な布巾で拭き、乾いた布で仕上げます。ネタケースは飾り棚ではなく冷蔵庫です。開け閉めを少なくし、切り置きのネタを並べて見栄えを作ることはしません(第4章)。ガリはトングや専用の箸で盛り、客席から下げたガリを容器に戻すことは決してしません。
そして何より、客の食べる速さを見ることが提供の技術の中心です。握りは置かれた瞬間から温度と水分が変わり始めます。前の一貫が口に入るのを見届けてから、次を握ります(第17章)。
19.2 おまかせとお好み
職人が順番を決めて出すのがおまかせ、客が一貫ずつ頼むのがお好みです。おまかせの基本の流れは、淡白な白身から始めて脂の乗ったものへ進み、酢で締めた光り物で口を切り替え、煮物で温度と甘みを変え、巻物と玉子で締めるというものです。これは舌の性質に合った順番です。舌は強い味の後に弱い味を感じにくくなります。トロの後に淡白なヒラメを出しても、ヒラメの味は立ちません。この骨組みに季節の旬を重ね、量は 10〜15 貫を軸に客を見て加減します。値段はあいまいにせず、コースの金額と追加の有無を最初に伝えます。
お好みでは、注文を復唱し、そのネタの今日の状態を一言添えます。「今日のサバは締めが浅めです」と言えるかどうかが、自分の仕込みを分かっている証です。品切れは正直に伝えて代わりを提案します。別の魚で黙って代用することは表示の偽りであり、アレルギーの事故にも直結します。
19.3 アレルギーの聞き取り
おまかせでもお好みでも、始める前に全員に同じ言葉で聞きます。「アレルギーのある食材や、苦手な食材はございますか」。この一言を省く店は、客の命を運に任せています。答えがあれば、「苦手」か「アレルギー」かを確かめます。苦手なら出さなければ済みますが、アレルギーは出さないうえに、道具も分ける必要があるからです。
日本の食品表示の決まりでは、症状が重い、または発症する人が多いものとして、特定原材料(表示が義務になっているアレルゲン)の 9 品目が定められています。えび、かに、くるみ、小麦、そば、卵、乳、落花生、カシューナッツです(カシューナッツは 2026 年 4 月に加わりました)。これに準じて表示がすすめられている品目が 20 あり、あわび、いか、いくら、さけ、さば、ごま、大豆など、寿司屋になじみの深いものが多く入っています。表示の義務があるかどうかにかかわらず、聞かれたら答えられるようにしておくのが職人の責任です。
| 品目 | 寿司店での主な例 |
|---|---|
| えび・かに | 車海老、蟹、海老の殻でとった出汁 |
| 卵 | 玉子焼き、マヨネーズを使った巻物 |
| 小麦 | 醤油、ツメ、天ぷらの衣 |
| そば | 茶そば、そば粉を使った衣 |
| 乳・くるみ・落花生・カシューナッツ | 創作巻きのチーズやナッツ |
| 大豆・ごま(推奨品目) | 醤油、味噌、ごまを使った巻物 |
アレルギーの事故は、原因の食材を「出した」ときより、「混じった」ときに起きます。海老を切ったまな板で白身を切る、蟹を触った手で握る。目に見えないほどの量でも、重い反応は起きます。申告のあった客には、洗っただけの道具ではなく専用の清潔なまな板と包丁を使い、手を洗い直し、調味料も別に取ります。洗っても、食材のタンパク質を完全にゼロにはできないからです。そして最も大事な原則は、分からないときは出さないことです。原材料を自分で確かめられないものを、「たぶん大丈夫」で出してはいけません。
宗教や体の状態への配慮も同じ線の上にあります。イスラム教の客が求めるハラール(イスラムの教えで許された食べ物)では、煮切りやツメ、合わせ酢に入る酒やみりんが問題になります。対応できないなら正直に伝え、認証のない店が「ハラール対応」を名乗ってはいけません。菜食の客には、鰹節の出汁と玉子が落とし穴です。妊娠中の客には、冷蔵庫の中でも増えるリステリア菌のため生ものを勧めず、大型の魚に多いメチル水銀(第10章)にも気を配ります。幼い子どもや高齢の人にも、加熱したネタで組み立てられることを伝えます。
19.4 テイクアウトの表示と温度
持ち帰りの寿司は、客の手に渡った瞬間から温度の管理が店の手を離れます。それでも責任は店に残ります。渡す前に、次のことを必ず行います(第4章)。
- 10℃以下を保つ 詰める前にネタと容器を冷やし、保冷剤を入れて 10℃以下を保ちます。冷たい空気は下に沈むので、保冷剤は上に置くと全体が冷えます。酢飯の酸は菌が増えるのを遅らせますが、止めはしません。
- 時刻と期限を書く 作った時刻と「○時間以内にお召し上がりください」を容器に書き、口でも伝えます。これは消費期限(安全に食べられる期限)にあたるもので、過ぎたら食べないよう伝えます。
- 季節と条件で時間を縮める 冷蔵できない状態なら 2 時間以内、気温が 32℃(90°F)を超えるなら 1 時間以内、というアメリカの一般的な目安があります。夏場は時間を短くし、保冷バッグを必須にし、場合によっては生ものの持ち帰りを断ります。
- 中身を書く 使ったネタとアレルゲン(少なくとも特定原材料 9 品目)を書いた紙を添えます。誰が食べるか分からないからです。
配達では、保冷バッグを条件にし、配達にかかる時間の上限を決めます。配達する人が店の従業員でなくても、責任は店にあります。
19.5 事故が起きたとき
どれほど注意していても、「お宅で食べてから具合が悪い」という連絡が来ることはあります。最初の動き方で、被害の広がりと店の行方が決まります。原則は一つ、隠さないことです。
- 聞いて書き留める 否定も言い訳もせず、来店した日時、人数、食べた品、具合が悪くなった時刻、症状、病院にかかったか、連絡先を聞き取って記録します。「うちではありえない」は、事実が分かる前に口にしてはいけません。
- 受診を勧め、保健所へ自分から連絡する 症状が重ければすぐに受診を勧めます。医師が食中毒と診断すれば医師が保健所に届け出ますが、それを待たずに店から連絡し、調査に協力します。
- 検食と記録をそろえる 取っておいた検食(出した料理や材料を、検査のために少し取り分けて冷凍しておいたもの)、仕入れの伝票、冷蔵庫の温度の記録、従業員の体調の記録をそろえ、同じ品を食べた他の客を把握します。
- 営業を止めるか決める 原因が分からないうちは、自分から営業を止めます。行政の処分を待つ必要はありません。
- 謝罪と再発防止 店が原因かもしれないことを認めて誠実に謝ります。仕入れ・温度・工程・従業員の健康を一つずつ調べて原因を突き止め、直したことを全員で共有します。
大量に調理する施設向けの決まりでは、検食は料理と材料ごとに 50g 程度を密封し、−20℃以下で 2 週間以上保存します。小さな店でも、宴会や仕出しの日に少し冷凍しておけば、原因を突き止める手がかりになり、店が原因でないことの証明にもなります。
19.6 職人の健康管理
店の中で最大の汚染源になりうるのは、職人自身の体です。毎朝、仕事に入る前に、下痢・嘔吐・発熱がないかを確かめます。症状があるときは生ものに触れません。
特に気をつけるのがノロウイルスです(第2章)。わずか 10〜100 個で感染し、アルコールが効きにくいウイルスです。日本で患者数が最も多い食中毒の原因で、その多くは調理する人の手を経由しています。怖いのは、症状が治まった後も 1 週間ほど、長いと 1 か月ほど、便にウイルスが出続けることです。ですから、ノロウイルスにかかった職人は、元気になっても、検便でウイルスがないと確かめられるまで、食品に直接触れる作業をしません。大量調理施設の衛生管理の決まりに沿った考え方で、寿司屋もこれに準じて復帰を決めます。
検便は月 1 回以上を目安にし、10〜3 月はノロウイルスの検査を加えることが望ましいとされています。同居する家族が嘔吐や下痢をしているときは、本人に症状がなくてもウイルスを運んでいるかもしれないので、これも申告します。手に傷や化膿があるときは黄色ブドウ球菌が増えていると考え、防水の絆創膏と手袋で覆ったうえで、素手で食品に触れる仕事から外れます。
19.7 海外で店を持つとき
海外で店を開くなら、まず、日本の常識はその土地の法律ではないと心得ます。守る順番は、一に現地の法令、二に科学、三に日本の流儀です。生の魚を出す店には、寄生虫対策の冷凍の記録や仕入れ先の証明が求められることがよくあります。アメリカではメニューに生ものの注意書きを載せる決まりがあり、そのまま食べる食品に素手で触れることを原則として禁じている州も多くあります。
こうした決まりに「日本ではこうする」と言い返しても通りません。通るのは理由の説明です。素手で握りたいなら、手洗いの回数、手酢、酢飯の酸と時間の管理を書類にまとめ、当局に示して認めてもらう道があります(第5章)。HACCP(ハサップ。食中毒などの危険を前もって考え、大事な工程に基準を決め、記録で確かめる衛生管理のやり方)は、日本でも 2021 年 6 月から原則としてすべての食品等事業者に義務づけられています。温度、冷凍の時間、消毒液の濃さ、従業員の体調を毎日記録し、検査官に見せられるようにします。現地の魚で作る寿司は、日本のネタの代わりと偽らず、「その土地の寿司」として正直に伝えます。
最後に、日本寿司協会が職人に求める心得を三つ挙げます。第一に、命を預かる仕事だと自覚すること。第二に、知らないものは出さないこと。断ることは誠実さの証です。第三に、学び続けること。衛生の基準も表示の制度も、年ごとに変わります。世界のどこで握るときも同じ水準で客を守ることが、二級の職人に求められる責任です。
この章のまとめ
- 身なり、客に見える手洗い、つけ台の拭き方、ネタケースの扱い、客の食べる速さを見ることは、すべて「安全においしく食べてもらう」ための所作です。
- おまかせは淡白なものから脂、締め物、煮物、巻物・玉子へ。始める前に全員にアレルギーと苦手を聞き、値段をはっきり伝えます。
- 特定原材料は 9 品目。申告のある客には専用の清潔なまな板と包丁を使い、分からないときは出しません。アナフィラキシーの兆候があれば迷わず救急車を呼びます。
- テイクアウトは保冷剤で 10℃以下を保ち、作った時刻と「○時間以内」を書いて伝え、アレルゲンも書きます。
- 事故の連絡を受けたら、記録、受診の勧めと保健所への連絡、検食と記録の確保、営業の判断、謝罪と再発防止の順に動き、隠しません。
- ノロウイルスにかかった職人は、検便でウイルスがないと確かめられるまで食品に直接触れません。体調を言い出せる店を作ることも、職人の仕事です。
確認問題
問1 嘔吐と下痢でノロウイルスと診断された職人の症状が治まった。仕事への戻り方として、最も適切なものはどれか。
a 症状が治まったので、その日から握りに戻ってよい
b アルコールで手を消毒すれば、すぐに握りに戻ってよい
c 手袋をすれば、検便の結果を待たずに生ものを扱ってよい
d 症状が治まった後もウイルスが便に出続けることがあるので、検便でウイルスがないと確かめられるまで、食品に直接触れる作業をしない
e 症状が治まってから 2 日たてばウイルスは必ずいなくなるので、戻ってよい
答え:d
ノロウイルスは症状が治まった後も 1 週間ほど、長いと 1 か月ほど便に出続けることがあり、10〜100 個という少ない量で感染します。そのため、検便でウイルスがないと確かめられるまで、食品に直接触れる作業はしません。a と e は、症状が消えてもウイルスが残ることを見落としています。b のアルコールはノロウイルスに効きにくく、c の手袋は手洗いや復帰の判断の代わりにはなりません。

