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すし検定

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목차 第18章 寿司の歴史 ― 屋台から世界へ
    1. 序章本書の使い方と二級の位置づけ
  1. 第I部 食の安全

    1. 第1章寿司と衛生 ― なぜ安全がいちばん大事なのか
    2. 第2章寿司屋で気をつける食中毒
    3. 第3章手洗い・消毒・まな板
    4. 第4章冷蔵庫と温度の管理
    5. 第5章なぜ素手で握れるのか
  2. 第II部 シャリ

    1. 第6章米と炊飯
    2. 第7章合わせ酢とシャリ切り
  3. 第III部 魚を知る

    1. 第8章魚の鮮度と熟成のきほん
    2. 第9章冷凍・解凍と下処理のきほん
  4. 第IV部 ネタ

    1. 第10章マグロ
    2. 第11章白身と光り物
    3. 第12章海老・イカ・タコ・貝
    4. 第13章穴子・玉子・ウニ・イクラ
  5. 第V部 調味料と薬味

    1. 第14章醤油・煮切り・ツメ・出汁
    2. 第15章わさび・海苔・ガリ・お茶
  6. 第VI部 技術と道具

    1. 第16章包丁と研ぎ
    2. 第17章おろす・切る・握る・巻く
  7. 第VII部 歴史と職人の心得

    1. 第18章寿司の歴史 ― 屋台から世界へ
      1. 18.1 はじまりは「米を食べない」寿司
      2. 18.2 都へ運ばれた鮓と、米も食べる「生なれ」
      3. 18.3 酢の登場 ― 早ずしと粕酢
      4. 18.4 江戸の屋台と握り寿司の誕生
      5. 18.5 明治から関東大震災へ
      6. 18.6 戦後 ― 委託加工と冷蔵庫
      7. 18.7 回転寿司 ― ビール工場からのひらめき
      8. 18.8 海を渡る寿司
      9. 18.9 いま、そしてこれから
    2. 第19章カウンターに立つ ― 接客と職人の心得
  8. 付録 資料編

    1. 付録A覚えておきたい数字
    2. 付録B寿司ことば
    3. 付録C旬のカレンダー
    4. 付録D出題分野と出題の目安

第VII部

歴史と職人の心得

第VII部 歴史と職人の心得

第18章

寿司の歴史 ― 屋台から世界へ

寿司は、はじめから今の形だったわけではありません。魚を腐らせずに食べるための保存食として生まれ、江戸の屋台で手早い食事になり、いまでは世界中で握られています。この章は読み物として、寿司の千年を超える旅をたどります。カウンターで客に聞かれたとき、正しく、そして楽しく話せることが目標です。

この章で学ぶこと

  • なれずし・生なれ・早ずし・握りの違いを、魚を守るしくみ(発酵の酸、酢の酸、仕事、冷蔵)と結びつけて説明できる
  • 握り寿司の誕生について、確かな時代と、諸説ある考案者を区別して話せる
  • 関東大震災、戦後の委託加工、冷蔵庫、回転寿司が寿司をどう変えたかを説明できる
  • 寿司が海外に広がった主な出来事を、年代とともに挙げられる

18.1 はじまりは「米を食べない」寿司

寿司のふるさとは、日本ではないと考えられています。最も有力なのは、中国の西南部からラオス、タイの東北部にかけての、川や水田で稲を作る地域で生まれたという説です。田や川でとれる魚を長く保存するための知恵で、稲作と一緒に東アジアへ広がり、日本にも伝わったとみられています。

その最初の形がなれずし(馴れずし)です。内臓を抜いた魚を塩に漬けて水分を抜き、炊いた米と一緒に桶に漬け込み、重石をして数か月から年単位で置きます。すると、米のデンプンを餌にして乳酸菌が増え、乳酸ができて桶の中が酸っぱくなります。魚を腐らせる菌は酸に弱いので増えられず、魚はゆっくりと、独特の酸味と旨味を持つ保存食に変わっていきます。

驚くのは、米は食べなかったことです。米は発酵のための「餌」で、崩れた米は捨てていました。今の寿司では主役の一つであるシャリが、最初は食べ物ですらなかったのです。

なれずしは今も日本に残っています。代表は滋賀県・琵琶湖の鮒ずしです。ニゴロブナを春に塩漬けにし、夏に飯に漬け直し、年を越してから食べます。冷蔵庫のない時代に、魚を年単位で保存できました。

18.2 都へ運ばれた鮓と、米も食べる「生なれ」

日本の記録に寿司が出てくるのは奈良時代です。8 世紀の律令(養老令)には、地方から都へ納める税の品として、アワビや貝の鮓(すし)が見えます。10 世紀の『延喜式』にも、各地からアユ・フナ・アワビなどの鮓が都へ納められた記録が残っています。なれずしは長くもつので、遠い国から都へ運ぶ品にできたのです。

室町時代(14〜16 世紀)になると、大きな変化が起きます。発酵の期間を数日から数週間に縮め、米がまだ形を残しているうちに、魚と一緒に食べるようになりました。これを生なれ(なまなれ)といいます。発酵が浅いので魚の味は生に近く、ほんのり酸っぱい米もおいしく食べられます。そのかわり酸が弱く、長くは保存できません。「保存」より「味」を選んだ、寿司の性格が変わった転換点です。

18.3 酢の登場 ― 早ずしと粕酢

江戸時代に入ると、発酵を待たずに、はじめから酢を飯に混ぜて酸っぱくする作り方が広まりました。これが早ずしです。何か月も待つ必要がなくなり、一晩で作れることから「一夜ずし」とも呼ばれました。木の箱に酢飯と魚を詰めて押す箱寿司・押し寿司は大坂を中心に発達し、今も関西の寿司の柱になっています。

酢は古くから米で造られていましたが、庶民が気軽に使うには安い酢が必要でした。そこで登場したのが粕酢(酒粕から造る酢)です。1804 年(文化元年)、尾張国の知多半島にある半田で、酒造りをしていた中野又左衛門が粕酢づくりを始めました。現在のミツカンの始まりです。粕酢は米酢より安く造れ、旨味が強く、色は赤茶色です。半田の粕酢は船で江戸へ運ばれ、このあと生まれる握り寿司の酢飯に使われました。赤みがかったシャリ、いわゆる赤シャリの由来はここにあります(第7章)。

18.4 江戸の屋台と握り寿司の誕生

いつ、誰が始めたのか

酢飯を手で握り、上に魚をのせる握り寿司は、文政年間(1818〜1830 年)ごろの江戸で生まれたとするのが通説です。考え出した人として最もよく知られるのは、両国で「與兵衛鮓」を開いた華屋与兵衛(1799〜1858 年)です。一方で、深川安宅の「松が鮨」を開いた堺屋松五郎を先がけとする見方もあります。同じころの江戸で、いくつもの店が握りの形を競い合って完成させた、と考えるのが実際に近いようです。

ですから、客に話すときは「与兵衛が発明した」と言い切らないことです。「文政のころの江戸で生まれ、与兵衛や松五郎の店が広めたと伝えられています。考えた人には諸説あります」と話すのが正確です。

屋台の握りは大きかった

握り寿司は、江戸の町の人が屋台で立ったまま食べる、手早い食べ物として広まりました。今でいえばファストフードです。一貫の大きさは今の 2〜3 倍、小ぶりのおにぎりほどあったと伝えられます。一つか二つで小腹を満たし、さっと次へ向かう。そんな食べ方でした。

ネタは、江戸城の前に広がる江戸湾(今の東京湾)の魚介です。コハダ、アナゴ、車海老、ハマグリ、アワビ、白魚などが中心でした。マグロは格の低い魚とされ、醤油に漬けた「ヅケ」にして使われました。脂の多いトロは日持ちせず、ほとんど捨てられていたといいます。

「仕事」は保存の技術だった

江戸前の握りは、「生の魚をのせる料理」ではありませんでした。コハダは塩と酢で締め、アナゴとハマグリは煮て、マグロは醤油に漬け、海老は茹で、白身は昆布で締めました。こうした下ごしらえを、寿司屋では仕事と呼びます。仕事は味のためだけではなく、冷蔵庫のない時代に、魚を一日もたせるための保存の技術でした。塩は水分を抜き、酢は酸で菌を増えにくくし、火は菌を殺し、醤油は塩分で守ります。第9章や第11章で学ぶ下処理の多くは、江戸の屋台で生き残るために磨かれた技術なのです。

「江戸前」という言葉

「江戸前」は、もともと江戸の前の海、つまり江戸湾を指す言葉でした。江戸時代には「江戸前の鰻」のように、魚の産地を表していました。ところが東京湾でとれる魚が減り、ネタが全国や世界から届くようになると、「江戸前」は産地ではなく仕事の流儀を指す言葉に変わっていきました。締める、煮る、漬けるといった一手間をかける技のことです。なお 2005 年には、水産庁の委員会が、魚の呼び名としての「江戸前」を「東京湾全体でとれた新鮮な魚介類」と整理しています。客と話すときは、産地のことか、流儀のことかを分けて使うと誤解がありません。

18.5 明治から関東大震災へ

明治に入ると、寿司のまわりで三つのことが変わりました。一つめは氷です。天然の氷に続いて機械による製氷が始まり、魚を冷やして運べるようになりました。二つめは鉄道です。1872 年の新橋・横浜間の開業を皮切りに鉄道が延び、魚も人も技術も地方へ動くようになりました。三つめは店の形です。屋台で立ち食いするものだった握りは、客を店の中に入れて座って食べてもらう「内店」へと重心を移していきました。それでも屋台の寿司は、昭和の初めまで町に残っていました。

大きな転機は、1923 年(大正 12 年)9 月 1 日の関東大震災です。東京の寿司屋は大きな打撃を受け、焼け出された職人の多くが、ふるさとや地方の町に移って店を開きました。それまで地方の寿司といえば押し寿司やちらしが中心だった土地にも、江戸前の握りが根づいていきました。大きな災害による人の移動が、握りを全国の料理にするきっかけになったとされています。

18.6 戦後 ― 委託加工と冷蔵庫

戦争が終わった直後の日本は、深刻な食糧不足でした。1947 年には飲食営業緊急措置令が出され、飲食店の営業は原則として禁止されます。そこで東京の寿司屋は、客が米を持ってきて、店がそれを握りに加工して返すという委託加工の形を認めさせて、営業を続けました。米 1 合で握り 10 個と引き換えるのが標準とされ、客は配給の米を持って寿司屋に通いました。この形は東京から各地に広がり、寿司屋は「料理を売る店」ではなく「技術を提供する店」として生き延びたのです。

1950 年代の後半からは電気冷蔵庫が普及し、1960 年代にはガラスのネタケースで魚を見せながら冷やす店の形が広まったとされます。遠い海で魚をとる遠洋漁業と、とても低い温度で凍らせる超低温冷凍によって、捨てられていたトロが日持ちするようになり、最高級のネタへと地位を変えました。ウニやイクラなど、江戸前にはなかった生のネタも定着します。冷蔵庫が「生のまま出す」ことを可能にしたのです。

この変化には裏の面もありました。仕事をしなくても魚がもつようになると、手間を省いて切った魚をそのままのせる店が増え、江戸前の仕事は「古い」「面倒」とされて、受け継ぐ人が減った時期があります。一方で、冷蔵庫は衛生の面では確かな進歩でした。10℃以下で保つ低温の管理(第4章)が店の当たり前になり、食中毒の危険は下がりました。魚を守る主役が、酸と火から低温へ移った。これが戦後の寿司のいちばん大きな変化です。

18.7 回転寿司 ― ビール工場からのひらめき

1958 年、大阪府布施市(いまの東大阪市)で、白石義明が「元禄寿司」を開きました。ビール工場のベルトコンベアから思いつき、皿にのせた寿司をレーンで客席の前に回す仕組みを作ったのです。これが回転寿司の始まりです。1970 年の大阪万博に店を出して全国に知られ、1978 年に白石の権利が切れると、各地で参入が相次ぎました。こうして寿司は、「職人のいる高い店の料理」から、家族で気軽に食べる食事になりました。同時に、大量のシャリと魚を低い温度で安全に回し続けるという、衛生の新しい課題も生まれました。

18.8 海を渡る寿司

寿司が本格的に海外へ出たのは、1960 年代のアメリカです。ロサンゼルスの日本人街に寿司カウンターが開かれ、日本企業の駐在員から現地の客へと広がりました。

このころ、生魚や黒い海苔に慣れない客のために生まれたのがカリフォルニアロールです。海苔を内側に巻き込み、脂の乗った魚の代わりにアボカドとカニを使いました。1960〜70 年代に考え出されたもので、考えた人はロサンゼルスの職人とする説と、カナダのバンクーバーの職人とする説があり、決まっていません。この裏巻きという工夫が、のちの世界的な寿司ブームの入口になりました。

もう一つの転機はサーモンです。日本では、天然のサケには寄生虫がいることが知られ、生で食べる習慣はありませんでした。1980 年代の半ば、ノルウェーは養殖のアトランティックサーモンを日本の寿司ネタとして売り込む計画を立て、長い交渉を経て、1990 年代に生食用のサーモンが日本の市場に定着しました。いまでは世界で最も人気のあるネタの一つですが、「昔からの江戸前のネタ」ではありません。

2013 年 12 月には「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコの無形文化遺産に登録され、寿司は和食の顔として、さらに注目されるようになりました。農林水産省の調査では、海外の日本食レストランは 2006 年の約 2.4 万店から、2025 年には約 18.1 万店に増えています。その多くは日本人以外が営んでいるとされ、寿司を握る職人にも、日本で修業したことのない人が多くいます。

18.9 いま、そしてこれから

今の寿司は、二つの方向に進んでいます。一つは高級化です。2007 年に東京版のミシュランガイドが創刊されてから、職人が流れを組み立てるおまかせが高級店の定番になり、世界中から客が日本のカウンターを訪れるようになりました。その中で、粕酢の赤シャリ、魚を寝かせる熟成(第8章)、昆布締めや漬けといった、戦後に細った江戸前の仕事が見直されています。もう一つは大衆化で、回転寿司や持ち帰りの寿司が毎日の食事として定着しました。

そして世界には、暑い国の屋台や夜市で、十分な冷蔵設備のないまま寿司を売る例もあります。生の魚とご飯という、温度の管理を誤れば最も危ない組み合わせを、酸と仕事と低温の知恵なしに扱えば、食中毒は避けられません。

表18-1 寿司の移り変わりと、魚を守るしくみ
形主な時代酸の出どころ米の扱い魚を守るしくみ
なれずし古代〜(今も鮒ずしなど)乳酸発酵発酵の餌。捨てる酸と塩で数か月〜年単位
生なれ室町時代短い乳酸発酵形を残して食べる浅い酸と塩で数日〜数週間
早ずし江戸時代前期〜酢を混ぜる酢飯として食べる酢飯の酸。押して水分を抜く
江戸前の握り文政年間〜酢(粕酢・米酢)酢飯を握る酢飯に加え、締める・煮る・漬ける仕事
今の握り戦後〜酢酢飯を握る冷蔵・冷凍と衛生管理。仕事は味のために選ぶ

この章で見てきたように、寿司はいつも「魚をどうやって安全に食べるか」への答えとして形を変えてきました。なれずしの乳酸、早ずしの酢、江戸前の仕事、戦後の冷蔵。どれも、その時代の技術で安全を守る工夫でした。世界に広がった今、職人が受け継ぐべきものは、握りの形よりも、この「安全を設計する」考え方です。日本寿司協会がこの本の第一の柱に衛生を置くのは、それが寿司の歴史そのものだからです。

この章のまとめ

  • 寿司の始まりはなれずしです。魚を米と漬けて乳酸発酵させ、酸で守る保存食で、米は捨てていました。室町時代の生なれで米も食べるようになり、江戸時代の早ずしで発酵が酢に置き換わりました。
  • 1804 年に尾張の半田で粕酢づくりが始まり、安い酢が江戸の寿司を支えました。赤シャリの由来です。
  • 握り寿司は文政年間(1818〜1830 年)ごろの江戸で、屋台の手早い食べ物として生まれました。華屋与兵衛・堺屋松五郎らの名が伝わりますが、考案者は諸説あります。一貫は今の 2〜3 倍あったと伝えられます。
  • 締める・煮る・漬ける江戸前の仕事は、冷蔵庫のない時代の保存技術でした。「江戸前」は産地の名から、仕事の流儀を指す言葉へ意味を変えました。
  • 1923 年の関東大震災で職人が全国に散って握りが広まり、戦後は委託加工で生き延び、冷蔵庫が生のネタの時代を開きました。
  • 1958 年の元禄寿司(回転寿司)、1960 年代のアメリカとカリフォルニアロール、1990 年代のノルウェーのサーモン、2013 年の和食の無形文化遺産登録が、寿司が世界へ広がる節目になりました。

確認問題

問1 握り寿司の誕生について、最も適切な説明はどれか。
a 奈良時代に、都へ納める税の品として生まれた
b 文政年間(1818〜1830 年)ごろの江戸で屋台の食べ物として広まり、考案者には華屋与兵衛や堺屋松五郎などの説がある
c 1923 年の関東大震災の後に、地方へ移った職人が考え出した
d 華屋与兵衛が一人で発明したことが、記録ではっきり確かめられている
e 戦後、電気冷蔵庫が普及してから生まれた

答え:b

握り寿司は文政年間ごろの江戸で生まれたとするのが通説で、華屋与兵衛のほか堺屋松五郎を先がけとする見方もあり、考案者は諸説あります。a の奈良時代に納められたのはなれずしです。c の関東大震災は、握りが全国に広まるきっかけになった出来事です。d のように一人の発明と断定するのは正確ではありません。e の冷蔵庫は、生のネタを広めたもので、握りの誕生よりずっと後です。