
第V部 調味料と薬味
第15章
わさび・海苔・ガリ・お茶
わさび、海苔、ガリ、お茶は、寿司の脇役に見えて、一貫の味を大きく左右します。わさびはなぜおろしたてがよいのか、海苔はなぜ炙ると緑になるのか、ガリはなぜ絞ってから漬けるのか。この章では、四つの扱い方を理由とともに学び、その抗菌の働きがあくまで「補助」であることも確かめます。
この章で学ぶこと
- 本わさびと西洋わさびの違いと、わさびを提供の直前におろす理由を説明できる
- わさびをネタとシャリの間に挟む理由と、その抗菌の働きの限界を説明できる
- 海苔の表と裏を正しく使い分け、炙ると緑になる理由と保存の方法を説明できる
- ガリの仕込みの手順と、上がりを熱く淹れる理由を説明できる
15.1 わさび ― 本わさびと西洋わさび
本わさびは日本原産のアブラナ科の植物で、寿司に使うのは根茎(地下の太い茎)です。一年を通して 10〜15℃前後の冷たい湧き水が流れる沢で育てたものを沢わさびと呼び、太く締まった根茎がとれます。主な産地は静岡と長野です。
西洋わさび(ホースラディッシュ)は、同じアブラナ科の別の植物です。根は白く、辛味の成分は本わさびと同じ仲間ですが、香りが乏しく辛さだけが強いのが特徴です。市販の粉わさびやチューブの練りわさびの多くは、西洋わさびを主な原料にして緑色に着色したものです。日本では業界の自主的な基準で、本わさびが 50% 以上なら「本わさび使用」、50% 未満なら「本わさび入り」と表示されます。寿司屋が「本わさび」と言って出すなら、根茎をその場でおろすのが前提です。
根茎は、鮮やかな緑で、締まって重いものを選びます。表面のでこぼこ(葉が付いていた跡)の間隔が狭いものは、ゆっくり育った証拠で、身が詰まり辛味と香りが濃いとされます。保存は、濡らした紙で包んで冷蔵し、紙を毎日替えます。
15.2 辛味は「おろす」ことで生まれる
わさびの根茎そのものは辛くありません。細胞の中には、辛味のもとになる成分(シニグリン)と、それを分解する酵素(ミロシナーゼ)が、別々の場所にしまわれています。おろして細胞が壊れると、二つが細胞の水分の中で出会い、辛味の成分(アリルイソチオシアネート。以下、辛味成分)が生まれます。混ぜて初めて固まる二液式の接着剤のようなものです。この反応に必要なのは水で、空気(酸素)は要りません。つまり、わさびの辛味は「おろす」ことが作り出しているのです。細胞を細かく、たくさん壊すほど、辛味と香りが強く出ます。
鮫皮でおろす
職人が鮫皮おろし(サメの皮を板に貼ったおろし器)を使うのはこのためです。鮫皮の細かな凹凸は、金属のおろし金の刃よりずっと細かく、細胞をすり潰します。目の粗いおろし金では繊維が切れるだけで潰れない細胞が多く残り、水っぽく辛味の弱いわさびになります。おろすのは茎側(葉の付け根の側)からです。茎側は香りがよく辛味がまろやかで、先端側ほど辛味が強く筋っぽくなります。皮のすぐ下に香りが多いので、皮は剥かないか、ごく薄く剥きます。鮫皮に根茎を垂直に当て、力を入れずに「の」の字を描くようにゆっくり回します。
辛味のピークは数分後
辛味成分は、生まれるそばから空気中へ逃げ(揮発)、分解もしていきます。おろした直後はまだ反応が進んでおらず、数分後(一般に 3〜5 分後とされます)に辛味が最も強くなります。その後は辛味と香りが抜けていき、空気に触れたまま 15〜20 分も置くと、苦味と青臭さが目立ってくるとされます。だから、わさびは使う分だけ、提供の直前におろします。開店前にまとめておろして冷蔵しておくと、密閉しても辛味と香りは時間とともに減り、おろしたての状態には戻りません。
ネタに合わせた量
辛味成分は水に溶けにくく、油に溶けやすい性質があります。トロやサーモン、ブリのように脂の多いネタでは、辛味成分が脂に溶け込んで刺激がやわらぐので、多めでも辛く感じにくくなります。白身は香りが繊細なので控えめにし、脂のない貝はごく少量にします。光り物は生姜に替えることもあります(第11章)。穴子や玉子、干瓢巻きには使いません。同じ量を全部のネタに挟むのは、ネタを見ていない証拠です。
15.3 なぜネタとシャリの間に挟むのか
握りでは、わさびをネタの上ではなく、ネタとシャリの間に挟みます。理由は二つあります。
第一は、香りを閉じ込めるためです。辛味成分は空気中に逃げやすいので、ネタの上に乗せれば数分で抜けてしまいます。ネタとシャリで挟めば閉じ込められ、口に入れて噛んだ瞬間に初めて香りが立ちます。
第二は、衛生を補うためです。ネタとシャリの境目では、冷たいネタと人肌のシャリが接し、水分が行き来します。水分と栄養と中途半端な温度がそろう境目は、菌が増えやすい条件が重なる場所と考えられます。わさびの辛味成分には、腸炎ビブリオや黄色ブドウ球菌などの増殖を抑える働きが実験で報告されており、境目に置くことでその働きが期待できます。ただし、一貫に挟む量での効果は補助にすぎません。菌を「殺す」のではなく「増えにくくする」だけで、すでに増えた菌や毒素は消えません。素手で握る寿司の安全を支えているのは、手洗い、手酢、酢飯の酸、そして温度と時間の管理です(第5章)。わさび・ガリ・お茶は、その上に重ねる補助の層です。
15.4 海苔
寿司に使う海苔は、アマノリ類のスサビノリという海藻を養殖したものです。主な産地は有明海(福岡・佐賀・熊本)、瀬戸内海(兵庫・香川)、三河湾・伊勢湾(愛知・三重)です。秋に網に種を付け、11 月下旬から 12 月に最初に摘むものを初摘み(一番摘み)と呼びます。芽が若く柔らかいので口溶けがよく、甘みとうま味が強いのが特徴です。摘んだ海苔を刻み、紙を漉くように簀(す)の上で薄く広げて乾かしたものが乾海苔(板海苔)で、全型は約 21 × 19 cm です。
表と裏
海苔には、つるりと艶のある表と、簀に接して乾いたザラザラの裏があります。巻物では、裏をシャリ側(内側)にします。ザラザラの裏はシャリの水分をすばやく吸い、米粒に引っかかって形崩れを防ぎます。外側に表が来れば、艶が見えて見た目もよくなります。逆にすると、つるりとした表の上でシャリが滑って巻きがゆるみます。巻き方は第17章で扱います。
炙ると緑になる理由
乾海苔は黒に近い紫色をしています。海苔には緑・赤・青・黄の色素が一緒に入っていて、絵の具を混ぜたときのように黒っぽく見えるのです。火で炙ると、熱に弱い赤い色素(フィコエリスリン)が壊れて消え、熱に強い緑の色素(クロロフィル。葉緑素)が主に残るので、鮮やかな緑に変わります。同時に香ばしい香りも生まれます。炙りすぎると緑の色素まで壊れて茶色くなり、香りが飛んで焦げ臭さだけが残ります。2 枚を裏同士で重ね、表を遠火で数秒ずつ炙り、緑に変わったところで止めるのが一つのやり方です。なお、海苔はグルタミン酸に加えてイノシン酸とグアニル酸も含み、それだけでうま味の相乗効果(第14章)が起きています。
湿気を防ぐ
海苔の敵は湿気・光・熱です。湿気を吸うと艶が消え、色があせ、香りが抜けて口溶けが悪くなります。乾燥剤を入れた密閉容器に入れ、光の当たらない涼しい場所に置きます。長く保存するなら冷凍が最もよい方法です。ただし、冷凍庫から出してすぐ袋を開けると、冷たいグラスに水滴が付くのと同じように海苔の表面が結露し、一瞬で湿気ます。袋のまま室温に戻してから開けます。切るときは、乾いた包丁と乾いたまな板を使います。
15.5 ガリ
ガリは生姜の甘酢漬けです。原料は 6〜8 月に出回る新生姜が最適で、繊維が柔らかく辛味が穏やかです。貯蔵された根生姜(ひね生姜)は繊維が硬く辛味が強いので、使うなら薄く切り、湯通しを長めにします。仕込みの手順は次のとおりです。
- 皮をこそげる 香りは皮のすぐ下に多いので、厚く剥かず、スプーンなどで薄くこそげます。
- 薄く切る 繊維に沿って 1 mm 前後に切ります。厚いと甘酢が芯まで入らず、薄すぎると歯ごたえがなくなります。
- 塩を振る 軽く塩を振って 10〜15 分置き、余分な水分を引き出します。
- 湯通しする たっぷりの熱湯に 10〜30 秒くぐらせ、辛味を少し抜き、繊維を柔らかくします。長く茹でると香りも抜けます。
- 熱いうちに絞る ザルに上げ、熱いうちに両手で水気をしっかり絞ります。
- 熱いうちに甘酢へ 絞ったらすぐ甘酢に沈め、冷蔵庫で一晩以上なじませます。
なぜ絞ってから漬けるのか
湯通しした生姜を強く絞ると、水を含んだスポンジを握ったときのように、組織から水が押し出されて隙間ができます。すぐに甘酢に沈めると、押し縮められた組織が元に戻りながら甘酢を吸い込み、そこから甘酢が少しずつ芯まで広がっていきます(拡散。濃いところから薄いところへ、成分が自然に広がっていく働き)。湯通しで生姜の細胞の膜はすでに壊れているので、ここで働いているのは浸透圧ではなく、この吸い込みと拡散です。絞らずに漬けると、残った水が甘酢を薄めて味が入りにくくなります。熱いうちに漬けるのは、温度が高いほど拡散が速いからです。
色と役割、衛生
新生姜のガリが淡い桃色になるのは、生姜に含まれるアントシアニン(酸で赤く色づく色素)が甘酢の酸で発色するためで、着色料ではありません。市販の鮮やかな紅色のガリは、着色料によるものが多くあります。ガリの第一の役割は口直しです。辛味と酸味が前の一貫の脂と香りを消し、次の一貫を新しい舌で味わえるようにします。生姜の成分と酢の酸には菌の増殖を抑える働きもありますが、これも補助です。
ガリはお客さんが直接口に入れるものです。盛るときは専用の箸かトングを使い、手でつかみません。お客さんの席から下げたガリを容器に戻したり、別のお客さんに出し直したりしてはいけません。カウンターのガリ入れには一度に出す量だけを小出しにし、仕込みの容器から直接お客さんの前に出さないようにします。
15.6 お茶(上がり)
寿司屋のお茶を上がり(あがり)と呼びます。使うのは主に粉茶で、煎茶や玉露を仕上げる工程でふるい落とされた細かい茶葉です。葉が細かいので成分が速く濃く出て、香りより味がしっかり立ちます。
なぜ口がさっぱりするのか
お茶の渋味のもとはカテキン(ポリフェノールの仲間)です。カテキンにはタンパク質と強く結びつく性質(収斂作用。しゅうれん。引き締める働き)があり、口の中に残った魚や唾液のタンパク質と結びついて洗い流します。渋いと感じるのは、この収斂そのものです。一方、トロのような脂を流すのは、お茶の熱です。マグロの脂はおよそ 24〜30℃で溶けるとされ(目安)、熱いお茶で溶けて流れやすくなります。カテキンが脂と結びつくわけではありません。熱とカテキンの二つで口の中がリセットされ、次の一貫の味を正しく感じられます。カテキンには抗菌作用も報告されていますが、これも補助です。
湯の温度と湯呑み
カテキンは高い温度ほどよく溶け出します。上がりは 80〜90℃の湯で短時間に出し、熱いまま出します。ぬるいお茶では脂が溶けず、カテキンも十分に出ません。ただし濃すぎると渋味がネタの味を邪魔するので、色は濃くても渋味が残らない濃さにとどめます。寿司屋の湯呑みが厚手で大ぶりなのにも理由があります。厚い焼き物は熱を逃がしにくく、熱いお茶を長く保ちます。熱くても持ちやすく、カウンターで倒れにくいのも利点です。お茶が減ったら、言われる前に足します。
この章のまとめ
- 本わさびは根茎をその場でおろして使います。粉わさびやチューブの多くは西洋わさびです。本わさび 50% 以上で「本わさび使用」、未満で「本わさび入り」と表示されます。
- わさびの辛味は、細胞が壊れてシニグリンとミロシナーゼが水の中で出会うことで生まれます。鮫皮で茎側から「の」の字にゆっくりおろし、数分後(3〜5 分後とされる)のピークに合わせて、使う分だけ提供の直前におろします。
- わさびをネタとシャリの間に挟むのは、香りを閉じ込め、境目での菌の増殖を補助的に抑えるためです。アニサキスもノロウイルスも、わさびでは防げません。
- 海苔はザラザラの裏をシャリ側にします。炙ると熱に弱い赤い色素が壊れて緑になります。冷えた海苔は袋のまま室温に戻してから開けます。
- ガリは薄く切って湯通しし、熱いうちに絞って熱いうちに甘酢へ。絞った組織が甘酢を吸い込み、拡散で芯まで入ります(浸透圧ではありません)。手で盛らず、下げたものは戻しません。
- 上がりは粉茶を 80〜90℃の湯で熱く出します。脂を流すのはお茶の熱、カテキンはタンパク質と結びついて口をリセットします。
確認問題
問1 わさび・ガリ・お茶の抗菌の働きについて、正しいものはどれか。
a わさびを多めに挟めば、ネタの中のアニサキスは死ぬ
b ガリを添えておけば、握りを常温に長く置いても安全である
c 抗菌の働きは補助的なもので、手洗いと温度・時間の管理の代わりにはならない
d 熱いお茶を飲めば、ノロウイルスは口の中で不活化する
e わさびの辛味成分は菌を殺し尽くすので、すでに増えた菌の毒素も消える
答え:c
わさび・ガリ・お茶には菌の増殖を抑える働きが報告されていますが、一貫に添える量での効果は補助にすぎません。素手で握る寿司の安全を支えるのは、手洗い、手酢、酢飯の酸、温度と時間の管理です。a:アニサキスは −20℃で 24 時間以上の冷凍か加熱でしか防げません。b:常温に長く置けば菌は増えます。d:ノロウイルスはお茶では不活化しません。e:増えにくくするだけで、すでに増えた菌や毒素は消えません。

