
第I部 食の安全
第5章
なぜ素手で握れるのか
海外の多くの国では、寿司は手袋をはめた手で握られています。日本の職人は素手で握ります。「なぜ素手で大丈夫なのか」に理由から答えられることが、二級の職人に求められる力です。答えは、手洗い・手酢・酢飯の酸・時間の管理という仕組みにあります。
この章で学ぶこと
- 手袋の問題点と、手袋が必要な場面を説明できる
- 手洗いと手酢の役目を説明し、手酢を正しく使える
- 酢飯が傷みにくい理由と、それでも時間の管理が要る理由を説明できる
- わさび・ガリ・茶が「補助」である理由と、なれずし・サワードゥと同じ「酸で守る」原理を説明できる
5.1 手袋では旨い寿司は握れない
米国の食品衛生の基準(FDA Food Code)は、そのまま食べる食品(加熱などをせずに客の口に入る食品)に素手で触れることを、原則として禁じています。握り寿司もこれに当たるので、米国の多くの寿司店は手袋で握ります。欧州やオセアニアにも、そのまま食べる食品への必要のない素手の接触を避けるよう求める決まりがありますが、米国のような原則禁止ではありません。
味の問題
よいシャリ玉は、外は締まり、中はふんわりと空気を含みます(第17章)。この形は、指先で米粒の手応えを感じ取り、力を加減して作ります。手袋はこの感触を奪い、固い団子になるか、締まらずに崩れます。米粒も手袋に貼りつきます。
衛生の問題
手袋は、見た目ほど清潔ではありません。第一に、手袋の上は洗いません。魚に触り、レジに触り、まな板を拭いた手袋が、そのまま次のシャリを握ります。第二に、手が汚れた感覚がないので、素手なら洗う場面でも洗わずに次へ進みます。第三に、手袋の中は蒸れて菌が増え、破れても気づきにくいのです。
日本寿司協会の立場ははっきりしています。素手で握るための衛生の仕組みを身につけた職人だけが、素手で握ってよい。素手は伝統だから許されるのではありません。仕組みを毎日実行している職人の素手は、洗われず替えられない手袋より安全で、しかも旨い寿司を握れます。
手袋が必要な場面
それでも手袋を使うべき場面はあります。手に傷や荒れ、化膿があるとき。素手が禁じられている国や地域で、例外の承認をまだ得ていないとき(5.6節)。アレルギーの原因になる食材を扱うときなどです。問題は手袋そのものではなく、「はめれば衛生は完成する」という思い込みです。
5.2 手洗いと手酢
素手の寿司を守る仕組みは、四つの柱と、いくつかの補助でできています(表5-1)。
| 仕組み | 何をするか | 位置づけ |
|---|---|---|
| 手洗い | 菌を石鹸で浮かせて流す(第3章) | 柱(土台) |
| 手酢 | 手の表面を酸性に保ち、米を付きにくくする | 柱 |
| 酢飯の酸 | pHを4.0〜4.5に下げ、菌を増えにくくする | 柱 |
| 時間の管理 | 決めた時間を過ぎたシャリは捨てる | 柱 |
| わさび・ガリ・茶 | 菌を抑える働きが報告されている。口直し | 補助 |
土台は手洗いです(第3章)。とくに握りに移る前には必ず洗い、爪は短く切って爪ブラシで洗います。
手酢とは
握るときに手を湿らせる水を手水(てみず)、そこに酢を加えたものを手酢(てず)といいます。配合は水と酢をおおむね1対1から3対1(水3に酢1)の間で、店ごとに加減します。食酢のpHは2.5〜3ほどで、水3対酢1に薄めても、手酢のpHは3前後にとどまります。
手酢の役目は三つあります。一つめは、米を手に付きにくくすることです。手を湿らせると、手と米粒の間に薄い水の膜ができ、米が付きにくくなります。酢にも付きにくくする働きがあるといわれますが、仕組みはよく分かっていません。二つめは、手の表面を酸性に保つことです。酸性の手の上では、菌は増えにくくなります。ただし手酢は菌を殺す薬ではなく、増えるのを抑える静菌の働きです。手洗いで菌を落とした後でなければ意味がありません。三つめは、手を湿らせて冷やすことです。
使い方は、指先を手酢に浸し、両手のひら全体に薄く広げます。目安は「手のひらが光る程度」です。多すぎるとシャリが水っぽくなり、少なすぎると米が付きます。米粒や脂が浮いた手酢は菌を運ぶので、営業中に何度か新しくします。
手を冷やし、手数を減らす
人の体温は約36℃で、手のひらの表面も30℃前後あります。トロの脂は冷蔵庫の温度では固まっていますが、体温より低い温度で軟らかくなって溶け出します(第10章)。だから脂の強いネタを握る前に、氷水で手を冷やす職人は多いのです。衛生の面でも、手が触れる回数と時間が増えるほど、手の熱と菌がネタとシャリに移ります。手返し(第17章)で手数を少なくするのは、手が食材に触れている時間を最短にするためでもあります。
手は作業の区切りごとにリセットします。魚を水洗いした手でサクを取らない。サクを切った手で会計をしない。会計をした手で握らない。
5.3 酢飯の酸と時間の管理
炊いたご飯は水分も栄養もたっぷりで、pH(ピーエイチ。酸性かアルカリ性かを0〜14で表す目安。7が中性で、小さいほど酸性)は6〜7と中性に近く、菌にとって居心地のよい場所です。ここに合わせ酢を打つと、酢飯のpHはおおむね4.0〜4.5に下がります(図5-1)。pHが下がるほど、多くの菌は増えにくくなります。
ただし「pH 4.6以下なら菌は増えない」は誤りです。4.6はボツリヌス菌が増えられなくなる境目で、サルモネラや黄色ブドウ球菌は酢飯のpHでもゆっくり増えることがあります。酢は菌を殺すのではなく、増えにくくするだけです。
人肌は危険温度帯のまん中
握るときのシャリは人肌、おおむね35〜37℃です。これは危険温度帯(10〜60℃)のまん中で、多くの菌がよく増える温度です。つまり寿司は、温度で菌を抑えることをあきらめ、かわりに酸と時間で抑える食べ物なのです。ここから二つの誤解が解けます。
一つめは「酢飯だから何時間置いても大丈夫」という誤解です。米にはセレウス菌(土に由来し、米によく付いている菌)がいます。この菌は芽胞(第1章)になって炊飯を生き延び、室温のご飯の中で増えて毒素を作ります。吐き気を起こす毒素は、加熱しても壊れません。酢飯の酸は増えるのを大きく遅らせますが、酢がよく混ざっていない所では増える余地があります。だからシャリを捨てる時間を店で決めます。酢を合わせた時刻を書き、決めた時間を過ぎたシャリは、残っていても捨てます。多くの店は2〜4時間を目安にしています(第7章)。
二つめは「冷蔵庫で冷やせば安全」という誤解です。冷やしたシャリは硬くぼそぼそになり、口の中でネタの脂を溶かせません。酸と時間で守る道を選んだ以上、寿司職人は時間に厳しくなければなりません。
5.4 わさび・ガリ・茶は「補助」
わさびの辛味は、すりおろして細胞が壊れたとき、細胞の中の成分と酵素が水の中で混ざってできます(第15章)。この辛味の成分には、大腸菌O157や黄色ブドウ球菌などの増殖を抑える働きが実験で報告されています。ネタとシャリの間に挟むのは、飛びやすい香りを閉じ込めるためで、水分と栄養が集まる境目で菌を抑える働きも少しは期待できます。けれども一貫分のわさびで菌を殺しきることはできず、アニサキスも死にません(第2章)。
ガリ(生姜の甘酢漬け)の漬け汁はpH 3前後で、ガリ自身が傷みにくい食べ物です。生姜の成分にも菌を抑える働きが報告されています。前の一貫の脂やにおいを消す口直しでもあります。熱いお茶(上がり)は、熱で口の中の脂を溶かして流します。お茶の渋みのもとのカテキンはタンパク質と結びつく性質があり、この渋みが脂っこさを打ち消して、次の一貫の味をはっきりさせます。カテキンにも菌を抑える働きが報告されています。
醤油や煮切りの塩分、塩締め・酢締め・昆布締め・ヅケといった江戸前の「仕事」も、水分を抜き、塩や酸でネタを守る技術です(第9章)。寿司は守りを何重にも重ねた食べ物ですが、どれも補助であり、手洗いと温度・時間の管理のかわりにはなりません。
5.5 酸で守る ― なれずし・サワードゥ・漬物
寿司のはじまりは「酸っぱい保存食」
寿司の原点はなれずし(魚を塩と米と一緒に漬け込み、数か月から年単位で発酵させた保存食)です。塩をした魚を炊いた米に埋めて重石をすると、乳酸菌(糖から乳酸を作る菌)が米のデンプンを餌に増え、全体のpHが4前後まで下がります。塩で水分が抜け、重石で空気が遮られ、酸性になった桶の中では、腐らせる菌も食中毒の菌もほとんど増えられません。今も滋賀県・琵琶湖の鮒ずしに、その姿が残っています(第18章)。
室町時代には発酵を短くして米も一緒に食べる「生なれ」が、江戸時代には発酵をやめて米に酢を混ぜる「早ずし」が生まれました。何か月もかけて乳酸菌に作らせていた「酸っぱい米」を、酢ですぐに作れるようにしたのです。酢飯とは、発酵の時間を酢で置きかえた、なれずしの近代版といえます(第18章)。
サワードゥも漬物も、同じ原理
サワードゥは、小麦粉と水を発酵させたパン種で膨らませる、酸味のあるパンです。乳酸菌が乳酸と酢酸を作り、生地のpHは3.8〜4.5まで下がります。この酸がカビを遅らせ、パンを糸を引くように傷ませる枯草菌を抑えます。枯草菌は、ご飯で増えるセレウス菌の仲間です。どちらも芽胞を作って焼いたり炊いたりする熱を生き延び、どちらも酸に弱い。サワードゥと酢飯は、同じ相手に同じ武器で勝ってきたのです。
ぬか漬け、キムチ、ザワークラウトは乳酸発酵で、ピクルスは酢で、野菜を酸性にして守ります。世界の保存食の多くは、酸性にする(pHを下げる)、塩などで水分を減らす、空気と時間を管理するの組み合わせでできています。寿司もその仲間です。
5.6 手袋が義務の国で
海外で握るなら、守る順番は、第一にその国の法令、第二に科学、第三に日本の流儀です。規則を破れば営業許可を失い、日本の寿司全体の信用を落とします。それでも、素手の道が閉ざされているとは限りません。
米国のFDA Food Codeは、素手での接触を禁じる一方で、保健当局に代わりの手順を申請して承認を受ければ、素手で触れることを認めています。申請では、素手で触れる食品の一覧、すぐ近くに手洗い設備があることを示す図面、体調の悪い従業員を働かせない方針、教育と手洗いの記録、手洗いに加える管理策2つ以上(2度洗い、爪ブラシなど)を書面で示します(病院や高齢者施設などでは使えません)。日本の職人に足りないのは仕組みではなく、それを書き、記録し、見せる習慣です。
酢飯についても、多くの地域で、十分に酸性であることを示すよう求められます。基準は地域によってpH 4.6以下だったり4.2以下だったりします。pH計(pHを測る計器)を厨房に置き、営業日ごとにpH 4.0と7.0の標準液で目盛りを合わせ(校正)、炊くたびに測って記録します。時間で管理する場合は、温度管理から外して4時間後の時刻を書き、それまでに出すか捨てます。
この章のまとめ
- 素手で握れるのは、手洗い・手酢・酢飯の酸・時間の管理という仕組みを身につけた職人だからです。素手は伝統だから許されるのではありません。
- 手袋は感触を奪い、洗われず替えられなければ菌を運びます。手に傷があるとき、規則で求められるときは使います。
- 手酢は水と酢をおおむね1対1〜3対1、pHは3前後。菌を殺すのではなく増えにくくする(静菌)働きで、手洗いのかわりにはなりません。
- 酢飯のpHは4.0〜4.5でも、菌を止めきれません。人肌は危険温度帯のまん中なので、シャリを捨てる時間を決めて守ります。
- わさび・ガリ・茶は補助です。なれずし・サワードゥ・漬物と酢飯は、酸で守るという同じ原理の上にあります。
- 手袋が義務の国では法令を守り、代わりの手順の申請や、pHと時間の記録で素手の仕組みを示します。手袋で握るなら作業ごとに替えます。
確認問題
問1 「手酢を使っているから、手洗いは省いてよい」と言う職人がいます。正しい考え方はどれですか。
a 手酢はpH 3前後なので菌を殺し、手洗いのかわりになる
b 手酢は菌を増えにくくする静菌の働きで、手洗いで菌を落とした後でなければ意味がない
c 手酢を濃くすれば、手洗いを省いてもよい
d 手袋をはめれば、手洗いも手酢もいらない
e 酢飯が酸性なので、手の菌は問題にならない
答え:b
手酢は米を付きにくくし、手の表面を酸性に保って菌を増えにくくしますが、菌を殺す薬ではありません。土台は手洗いです。a と c は手酢を殺菌剤と取り違えています。d は、手袋もはめる前と外した後に手洗いが必要です。e は、酢飯の酸も菌を殺すのではなく増えにくくするだけなので誤りです。
問2 酢飯の安全について、正しいものはどれですか。
a 酢飯はpH 4.6以下なので、どんな菌も増えず、何時間置いても安全である
b わさびをネタとシャリの間に挟めば、シャリの時間の管理はいらない
c 酢の酸は菌を増えにくくするが止めきれないので、シャリを捨てる時間を店で決めて守る
d 人肌のシャリは危険温度帯より高い温度なので、菌は増えない
e セレウス菌の毒素は、シャリを温め直せば壊れる
答え:c
酢飯の酸は菌が増えるのを遅らせますが、止めきれません。だから酢を合わせた時刻を書き、決めた時間を過ぎたシャリは捨てます。a の 4.6 はボツリヌス菌の値で、サルモネラや黄色ブドウ球菌はそれより低い pH でもゆっくり増えることがあります。b のわさびは補助にすぎません。d の人肌(35〜37℃)は危険温度帯(10〜60℃)のまん中です。e のセレウス菌の吐き気を起こす毒素は、加熱しても壊れません。

